#348 急電


「君が通訳担当者の浅上葵君かな」


 部屋に入ってきて早々、外交官然としたスーツ姿の男はこちらを見て、そう言った。

 ここは外務省研修所のとある一室で、俺は先にあった外交官に対するリパライン語研修の初回を終えたところだった。浅上や葵とは違って、実際にリパライン語を話した経験の多い俺は「コミュニケーション」の訓練に割り当てられ、その初回として発音の解説をしていたのであった。

 それで、その後に入っているフィレナの移送交渉の通訳への移動に向けて短い休み時間を過ごしていた最中だった。


「俺は八ヶ崎翠と言います。彼は今日は都合が悪いみたいで、その交代要員です。もしかして、捕虜移送交渉の外交官さんですか」

「そうだ、君をエスコートするように言われている」


 俺とその男は外に止めてあった車に同乗する。さすが良い給料を貰っているようで、ドライバー付きの高級車だった。

 暫く無言で車窓を眺めていたが、少しでも事前情報を集めておこうと思い外交官の方に目を向けた。


「捕虜移送の交渉、と言ってましたけど捕虜を移すのに交渉が必要なんですか」

「もちろんだよ、双方共に捕虜の取扱いに関する条約とか移送の日時、派遣する人員、事後処理まで話し合う必要があるんだ。今日は顔合わせだから、そこまで込み入った話はしないと思うけど」

「フィレナが送還されるまで、最短で何日くらいでしょう」

「うーんと、順調に進んだとして一ヶ月かな。リパライン語を理解できる人間が日本にほとんど三人しか居ない状態だと、無理だろうと思うけどね」


 そんな話をしているうちに、車は厳重な警備に包まれた屋敷のような場所に到着していた。


 一時間半の打ち合わせはほとんど外交官同士の無駄話に終わった。本当にアイスブレイクのみだったその会議はフィレナの送還がそう早くないことを感じさせるものだった。しかし、善は急げとはいうもので顔合わせの終了後、すぐに宿舎の固定電話で分かれる前に貰った谷山の電話番号に掛けることにした。

 彼はシャリヤを救えなかった事実を悔いていた一方で、フィレナとの面会を難しいながら、どうにかして調整すると意気込んでいた。

 そんな通話を終え、自室で一息ついていたところで今度は固定電話が着信音を鳴らした。谷山が何か言い残したことを伝えようと再度掛けてきたのだろうか。そんなことを思いながら、受話器を取ると全く違う人間の声が聞こえてきた。


「もしもし、外務省の✕◯ですが八ヶ崎さんですか?」

「えっ、ああ、はい、そうですけど」


 聞いたこともない名前にしどろもどろになりながら、かろうじて答える。相手はそれに動じることもなく先を続けた。


「外務省の異世界語通訳者の運用が変更になりまして、八ヶ崎さんだけは他の二人と少し違ったお仕事をしてもらうことになりましたので、お伝えする必要があってお電話しました」

「はあ」


 曖昧な相槌しか出来なかったのは、そんなことまた明日連絡すれば良いだろうと思ったからだ。そんな俺の気持ちとは裏腹に相手は更に話を続けた。


「それで、上からは八ヶ崎さんをユエスレオネ連邦の在外公館専門調査員に推す声が多くてですね。具体的にはユエスレオネの方に渡って、日本の外交官の通訳としてお手伝いする傍ら、現地調査をお願いする形になります」

「な、なるほど……」


 俺にとっては好都合な話だった。幾らフィレナからシャリヤを連れて行ったシェルケンが飛んだはずの予想地点を聞き出せても、まずユエスレオネに行けなければ、何も始まらないのだ。

 しかも外交特権を持って動き回れるのはより都合が良い。

 しかし、そんな上手い話もなく、俺は次の瞬間悲鳴のような声を上げることになった。


「それで、今週末までには準備を――」

「こ、今週末ですか!?」


 悲鳴のような声が出た。

 今は週の真ん中、水曜日であと二日、三日で日本を経たねばならないことになる。それまでに谷山がフィレナとの面談を調整できなければ、俺はシャリヤへの手掛かりを一つ失うことになる。

 受話器を持つ手に汗が滲む。


「予定を少し前に伸ばすことは出来ないんですか!?」

「ええっと、私の権限ではどうにも、これから上に掛け合っても間に合うかどうか……」


 助けを求めるような悲痛な声に多少引きつつも、電話先の相手は本当にそう言うことしか出来ないようだった。

 クソッ、と心のなかで毒づきながら退路を探す。しかし、全てが外務省に握られている今、その決定に反論することは不可能だった。

 息を落としつつ、相手に答えようとする。


「わ、かりました……」

「大丈夫ですか? お身体の調子が優れなければ、代替に他の方を検討しますが」

「い、いえ、その必要はありません! ただ、突然だったもので……」


 電話先の相手は「あぁ、そうですよね」などと適当な同情の言葉を連ねる。しかし、その殆どは俺の耳に全く届いていなかった。

 計画は狂いつつあった。フィレナへの面会を三日以内に行えなければ、シャリヤ探しはより困難なものになる。出来ることは谷山をせっつくことしかない。


 受話器を置いた後、俺は先行きの不安を抱えながら布団の中に潜った。しかし、当然眠ることが出来るはずもなく、朝になってやっと意識を失うようにして眠り込んだのであった。

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