卌四日目

#228 お前を殺すためだよ


 翠は建物と植え込みの間に隠れながら一夜を過ごすことになった。夜になると風が肌を冷たくする。翠は瘧にかかったように体を震わせていた。かじかむ手を擦り合わせながら、いつ見つかるかも分からない状況で一睡も出来るわけはなく、どんどん精神と体力が消耗されていった。変な静寂の中で日は明けていった。議会側で騒ぎがあるわけでもなく、道路側から車両が走る音やクラクションが聞こえてくるわけでもない。デモで集合した時にはこんな静けさじゃないはずだった。だからこそ、あんな凄惨な結果になったデモの現場が今どうなっているのかを外に出て確認したかった。

 周りにシャリヤたちの姿は全く見られなかった。あれだけ強制的に弾圧を加えるような政府だから、彼女たちが今どうしているのか不安だった。レシェールとヒンゲンファールのことである。どうせ今頃は狡猾に逃げ出して安全な場所に居ることであろう。そう信じなければ、とてもじゃないが今の正気を保てそうになかった。

 静かだからといっていきなり外に出て逮捕されたり、射殺されたら終わりだと思ってゆっくり他に人が居ないか確認しながら植え込みの間を抜ける。本当に気持ち悪いほどに静かだった。人の気配もしなければ、機械が無機質な音を立てているのも聞こえなかった。不安の中、議会の入り口にまで来ると目の前に広がるそれに目が釘付けになった。


「酷い……こんなことをやって何になるっていうんだよ……」


 誰に向けてでもない自分の声は震えていた。同時に強烈な吐き気を催して何も食べてない翠は苦しみながら喘ぐ以外に何も出てこなかった。直視できないその状況からすぐに目を逸らしたというのに目を瞑っても瞼の裏に残っているかのように強烈に情景を繰り返していた。議会の入り口の前は血まみれになっている。装甲車の横には力を失って人間らしい顔とは到底言えないような瞳孔が開ききった死体が取り敢えずとばかりに積み上げられていた。何体かは喉元が切られていて、大量出血で服が染まっていた。老若男女関係なく、全てがぴくりとも動かない静寂に包まれていた。積み上げられた死体の一部は焼けただれていて、一部が炭化しているようなものもあった。PMCF軍が彼らを殺した時に使ったのは銃だけであったはずだ。つまり、殺し損ねた負傷者に火を付けて生きながらにして焼け死んでいくのを見て楽しんでいたというのか?

 狂っている――平和的な訴えに対してこの仕打ちは狂っている。


「こんなの……虐殺だ……。何の意味もない虐殺だ……」


 憎悪が募ってゆく。ユエスレオネ難民が一体誰を殺したというのか。むしろ、ユエスレオネ難民こそ一方的に殺されていると確実に言える。そうやって一方的に自分たちを殺すのであれば残された手段は数少ない。そんなことを考えていると、急にシャリヤのことが心配になってきた。負傷者に火を付けて嘲笑うような奴らである。シャリヤのような美少女が捕まれば何をされるのかは明白だった。いずれにせよ暴行である。

 瞬間的に三人の顔が想起される。シャリヤ、エレーナ、フェリーサ、全て皆底抜けに可愛い女の子だ。捕まれば最後、最悪の展開となるのが目に見えていた。彼女たちのおかげで翠はここまで生きてこれたというのに彼女たちに情の一つもないなんてことはありえない。心配が脳内を支配していた。でも、どうすればいいのだろう。どこへ行けばいいのだろう。


「おいおい、そんなんでシャリヤちゃんとか救えるのか?主人公」


 日本語が聞こえて反射のように振り返る。そこに居たのは見紛うこともない人物であった。栗毛色のミディアムの髪、少し高めの背。黒のコートに特徴的な褐色の肌。今まで異世界の言語と文化を理解するために必要であった知識の源であり、援助者であった一番身近な地球人。


「インド……先輩……?」


 インド先輩――浅上慧の姿は見紛うこともない。この異世界に来て記憶が無い中で唯一姿を覚えている知人の地球人である。それが目の前に居て、喋っている。吐き気を催してグロッキーになっている翠を見下ろすように軽蔑的な視線を投げかけている。遂に自分は壊れて幻覚まで見えるようになってしまったのかと思ったが、ここに居る誰よりも生きた人間らしい香りを感じさせる彼が幻覚だとは思えなかった。

 翠にとって最も疑問であったことは彼が知っていることであった。


「主人公……ってなんですか? 先輩、なんでシャリヤのことを知っているんですか?」

「ふむ……」


 浅上は何かを考え込むような顔をしていた。考え込むような顔をしてコートの中を漁っていた。焦りで頭が満たされている翠にとってはその余裕が苛立たしかった。


「シャリヤの居場所を知っているなら教えて下さいよ。先輩はどうしてこの世界に居るんですか?」

「そうだなあ、それは――」


 浅上がコートから何かを抜き出すような動作をした。それは彼の過去のどの表情よりも愉悦を感じているように思えた。瞬間、足に激痛が走った。熱い火箸で抉られるような痛みと衝撃に耐えきれず、足を折って地面にへたり込んでしまう。何度も銃撃を受けてきたが、それでも痛みには抗えなかった。そして、銃撃を加えられた理由も理解できなかった。


「――お前を殺すためだよ」

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