赤い狐1
●赤い
この日、わしは護衛の
領事館設立の為、オールコック殿がご府中を離れて居たからである。
と言うのが、表向きの理由であった。
筒袖の軍服を着たわしが、同じ軍服に着られた生殿を抱いて馬に乗り、お春に轡を取らせた。
左を向いた横乗りに乗る生殿の背には、平成の代では同じ年頃の子供が黄色いカバーを掛けて背負う
そして宣振と通詞は徒歩で馬の前と後ろを行く。
どちらも上士でも無ければ騎兵でも無いことも理由の一つだ。しかし、
「姫さん護るに、馬だとえてが悪うてな」
何よりも大きいのは宣振のこの意見。馬は攻めるに強く護るに弱い。脚を止めた馬やのろのろと動く馬は、敵から見れば良い的に過ぎないのだ。
ご府中は破軍神社を七つ立ち。七里の道を行き行けば、エゲレス領事舘到着は四つの巳の刻。平成で言う午前十一時を回った辺り。
「お出迎え、ご苦労様にございます」
わしが鐙を外し頭を下げると、
「ドウ、イタシ、マシテ」
日本語で返すオールコック殿の律義さよ。
エゲレスの特命全権公使オールコック殿は、恐らく東洋人を見下して居るであろう腹の内は兎も角。見掛けはハリス殿のような
杓子定規とは縁遠い実務家で、八島の事情も斟酌して対応する気配りの出来る男でもあった。
但しそれだけに誤魔化しを嫌う。不可能な事、或いは巡り巡ってエゲレス国に不利益になるような無茶を言う事は先ず無いが、埒が明かなければ武力行使も厭わない男だと聞いている。
ここでもまた、双方オランダ語の出来る通詞を使い、間にオランダ語を挟んだ会話が始まった。
知れたものとは言え、わしも英語力はゼロではない。戦前には中学講座で学んでおったし、戦後は証城寺の狸囃子の替え歌で有名な『カムカム英語』で学んだ。なので難しい言い回しは判らなくとも、ある程度は聞き取れる。
しかし英語って奴は融通が利かない言葉だ。冠詞の僅か一音が付くか付かないかでまるっきり意味が変わってしまう。
例えば、
――――
I ate a chicken.
I ate chicken.
――――
前は鶏を丸ごと一羽食べたことを示し、後は単に鶏肉を食べたことを示す。こう言う事は幾つもあるから、外交の言葉としてネイティヴスピーカーを相手取るのは不利なのである。
まして相手は、本家本元のエゲレスだ。間違っても、相手の土俵で戦う訳には行かない。
「植民地人とは上手く出来たようですね。恐らく我が国と同じ条件であれば、オロシャもオランダもフランスも首を縦に振ることでしょう」
「痛み入ります」
「所で。我が国への見返りですが……」
やはり、自国の利を確保しに来た。特許料のキックバックはリベートに過ぎず、この時代ならごく当たり前の事だからである。
「
個々の商人の小口取引は兎も角、国を挙げての取引は我がエゲレスが事実上の独占を行う積りである。
これを成す為に大樹公家出資による公社を作り、これのヨーロッパ総代理店を我が国に置く。そうすれば、エゲレスは誠意を持って大樹公家の利益を出そう」
オールコック殿は全く嘘を言って居ない。そう、言うべき事柄を自分に有利なように操っているだけである。
「世界の海は我がエゲレスの庭にて、世界のいかなる国も我が国を蔑ろにして商売は出来ない。
この我が国が、大樹公の利益を保証するのである。ヨーロッパの悪徳商人らに買い叩かれている絹を少なくともその倍で買い取ろう。これだけでも、大樹公や絹を創る者達が潤う筈だ」
ほう。あちらから
「良いお話にございますね」
「お任せください。八島がサムライの国ならば、エゲレスは
オールコック殿は人の良さそうな笑みを浮かべて胸を叩く。
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