五月の風船1

●五月の風船1


 甍の波と雲の波。ご府中の空に鯉が舞う。

 豊かに尾鰭を揮う碧空あおぞらの上に高く、白い玉が浮かんでいる。


 十重二十重に囲む人垣。招待した外国人や職人・商人・瓦版屋の姿。

 ご府中郊外の田園地帯で今、八島で初めての試みが行われているのだ。



「鋼線は百五十けん(約二百七十三メートル)。風に流されて角度は六十度じゃき百三十間(約二百三十六メートル)やな」

 宣振まさのぶが計算尺を使う。


 和紙と綿布とコンニャクで作られた気球は、ゴンドラに載せた百貫(三百七十五キロ)のおもりを無事に上空へと持ち上げた。これだけの高度が有れば敵情は丸見えとなり、この重さで大丈夫ならば観測員二名の他に武器や写真機や通信機械を載せることが可能だ。


 尤も、

「問題は、膨らませるのに瓦斯発生装置を用いても半刻はんとき(一時間)は掛かるんと、紐付きで無うては風任せちゅう事やな」

 宣振の指す彼方、強い風に煽られて気球は上空で揺れている。

「あれだけ揺れると写真機が使えないのじゃ」

 残念そうに気球を見上げるふゆ殿の顔。


 写真機は指物師に箱を作らせ、舶来のレンズを組合せて作成した。

 フイルムは前世の史実通りゼラチンを用いた乾板かんぱんと、乾板よりも消費期限は短いが事前に作り置き出来る物として、ゼラチンの代わりにオゴノリ寒天を用いた半乾板はんかんぱんの開発に成功した。

 しかし、首尾良く列強の特許を取得出来たまでは良かったが、必要な感光時間がまだ長い。あのように揺れるとブレて使い物に為らないのだ。


「あそこからならどこへでも撃ち込めるのじゃ」

 と生殿は言うが、

「只のゲベールでは先ず届きませぬが、あれほど大きな風船は施条しじょう銃の良い的に成ります。

 仮令たとえ狙って人は撃たれずとも、打ち上げで威力を減ずるとも、風船を撃ち抜かれて墜落すれば命は有りません」

 狙撃隊長のあき殿が感想を述べた。

「信殿。染料弾で撃って下さい」

「了解しました」

 手に持つスペンサー銃で狙いを付けて、一発、二発、三発。

 信殿は七発全てを発射。染料弾を込め直して十回それを繰り返した。


「風船降ろせ!」

 轆轤ろくろを回して鋼線を巻き取って行く。離陸も時間が掛ったが、着陸も大層な手間だ。


「時間は?」

「十五分だよ」

 時計を見詰める奈津なつ殿が読み上げた。



「信殿の腕で、七十発撃って命中弾は二発か」

 意外と弾はあたたらない。だが現実に中たっていると言う事は、前線使用で気球が撃ち抜かれる可能性は高い。

「瓦斯を入れる手間は増えるが、中を細かく分けてはどうだろう?」

 宣振が案を出す。そうすれば、一か所くらい裂けてもたちまち墜落とは為らない。


はよ落下傘らっかさんも試さなあかんね」

 お春はわしの顔を見る。

 浮力を失って加速しながら降下する気球から脱出するために有効だ。しかし常に危険が付き纏う。


 前世。戦争が終わって何十年も経った後、スポーツしてのスカイダイビングを習ってみた。

 インストラクターのタンディムを経て一人で降下出来るようになった。何度も通ってそこそこの腕前には為ったと思う。

 尤も、その頃には落下傘の安全性も高まり、何故か開かぬ落下傘や紐が巻き付いての絞首やらの事故は減っては居たが、それでもゼロには成って居なかった。

 まして黎明期の今は、事故も少なくはないだろう。


「初乗りは私が参ります」

「姫さんそれは拙いろう。他人に任せてえれえれするがは解るけんど、お精出せいだいてとは言われん」

 わしを宣振が、他人に任せてそわそわするのは解るけれど、行ってらっしゃいとは言われない。と止めるが、

「私が参ります」

 断固としてわしは言った。


 なぜならば。この中で落下傘の心得があるのは、わし唯一人ただひとりなのだから。

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