第二章 抗う者達

噂をすれば

●噂をすれば


 特別問題になる事も無く。宣振まさのぶについて、岡田家廃嫡と土州としゅう士籍しせきからの離脱が認められた。これを以って彼は自動的に、わしの郎党として帰属したのである。

 同時にいみなの読みも『よしふる』から正式に『まさのぶ』に改められた。



 翌朝。高知の街を案内する宣振は、疲れた声でわしにぼやく。

「あまりトントン拍子に進むき、親父を蚊帳の外にしてしもうた」

 言いたいことは判るのだが、

「実家より、主家のお召しが先に成るのは仕方ありません」

 とわしは切って捨てる。

「それよりも、越後屋さんの為替をお金に換えませんと。宣振は伝手があると言っておりましたが、どこへ参ります」

「姫さん。わしの知り合いに本丁ほんちょうの坂本言うて、土州としゅう指折りの豪商の分家の者がおるのや。今そちらに向かいゆーよ」


 上士と郷士。武士と町人。身分による格差はあるけれど見て解る。高知の街は明るい。

 正確に言えば、住む世界が余りにも違うので直接的な軋轢が少ないのだ。


 第一、城下を上の者が歩いてくれば、下は礼を尽くすのが当たり前だし。仮に右も左も弁えぬ幼児が多少の無礼を働いたとしても、歴とした武士が簡単に激高するようではかなえの軽重を問われてしまう。

 金持ちの商人あきんどを羨んだとて、目上の者がはしたない真似をする訳には行かない。

 だから、世の中は案外上手く回って居るのだ。



「……なるほど。何もすず殿ばかりではなく。土州としゅうは女傑が多いのでございますね」

「ああ。これから向かう本丁の大姉さんなどその典型や。

 そこの次男坊がわしの知り合いなんやけんど、幼い頃酷ええじめに遭うたせいで、私塾を辞めたり治りかけちょった寝小便がぶり返して十三歳まで続き、将来が危ぶまれたものや」

「十三まで……」

「だが師匠が見限っても父御や兄貴が諦め掛けても、あいたぁ(あいつ)にゃ大姉おおおねぇがおった。

 弟が、いじめられたら棒を持って仇を討ちに行き。学問が振るわんと聞いたら、論語でも算術でも舎密せいみ(化学)でも窮理きゅうり(物理)でも。先に覚えて根気良う教えたものや。それでどうにか物になったんじゃ。

 白状するとこのわしも、剣術も砲術もあの大姉さんにはかなわん。いや正しくは未だに敵う気がせんのじゃ」

 わしに向かって砲術も剣術も熟せると豪語する宣振にしては、だらしないと思えるほど自信がない。


 他人事には思えない。実はわしの前世の曽孫の一人は、中学に入るまで寝小便が治らなかった。

 あの変身ベルトを着けてポーズを取り、

「可愛いと言わないで、カッコいいと言って」

 と可愛い事を言って居ったあのショウだ。

 彼は寝小便が負い目と成ったのか治るまで学業成績は振るわなかったが、治った後に大化けしたのを覚えている。


 そのショウが小学校の修学旅行の際。寝小便について学校に相談した所、

「毎年、クラスに一人はそう言う子が居ます」

 と励まされ送り出したが案の定失敗し、先生達に密かに何とかして貰った。


 幸いショウの寝小便は、中学に上がり入学式を済ませた夜よりピタリと止まった。しかしまだ旅行先など環境が変わると失敗することがあった為、修学旅行の宿泊を危ぶんで学校に相談したのだが。この時も、

「毎年、学年に一人はそう言う子がいます」

 と励まされた事を覚えている。

 結果はここでも失敗し先生のお世話になった。この時、級友諸君に知られずに済んだのは望外の幸運と言えるだろう。

 そんな曽孫も、流石に高校の修学旅行は失敗せずに無事済ませたのだから、病気でもない限り必ず寝小便は治るものだと実感させられたものだ。


 学業成績は、おかげさまで普通は寝小便をしなくなった中学から成績が上がり始め、失敗せずに修学旅行を終えた後は志望を二段階も上げて大学合格を果たした事を覚えている。

 恐らくは宣振の知り合いも、曽孫と同様の者であったのだろう。



「申し、おまさんは七軒町しちけんまち以蔵いぞうさんじゃないか?」

 思考に沈んでいたわしを引き戻したのは、後ろからの女の声。

 顧みると、声の主は下手な男など見下ろすくらいの大女である。


「如何にもわしじゃが……。ほ、本丁ほんちょう大姉おおおねぇ!」

 噂をすれば何とやら。

「大姉にはお変わりのう。一寸ちくっとばっかり帰って来た。長らく御無沙汰しちょります」

 誰かと知るや、盛んにペコペコと小笠原流のお辞儀を繰り返す宣振。

 文字通り頭の上がらぬ相手のようである。


「丁度良かったではありませぬか。案内して頂きましょう」

 わしが宣振に言った時、大姉と呼ばれた大女が、わしに向かってこう言った。

「おまさんはどなたじゃ?」

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