われは犬か!

●われは犬か!


 わしらを家に招いた本丁ほんちょう大姉おおおねぇの名は、乙女おとめ殿と言う。

 宣振まさのぶから聞いた話に拠ると。

 家は土州としゅう有数の豪商・才谷屋さいたにやの分家にて、分家初代はそこの長男であったと言う。財を成した商人あきんどが銭で郷士の身分を買い、分家と言っても長男故に少なくない資産を分け与えたので、家禄は低くとも相当の金満家と成ったのだ。

 下って三代目。五年前に身罷った現当主の父は、郷士は郷士でも御役目に就け出世も適う白札しろふだ郷士家からの婿入りで、今や血筋も悪くはない。


 因みに白札郷士とは功績を認められた郷士の家であり、なんでもかんでも兵隊の位に直した山下清やましたきよし画伯風に言えば、兵でありながら下士官の勤めを果たした伍長勤務上等兵のような物である。

 伍長勤務上等兵は、兵としては最上位であり下士官と同じ事をしているが、決して下士官ではない。同様に白札郷士は、下士としては最上位であり上士と同じ事をしているが、決して上士では無いのだ。



 さて。本丁に到り乙女殿の家の門に辿り着くや否や。

「なんですかこれは?」

 わしの鼻に異臭が飛び込んで来た。乙女殿はそれを嗅ぐなり、

「あんべこんかあ!」

 吼えるように怒鳴ると、血相を変えて中に入って行く。


「お嬢様おか……」

 出迎えの奉公人に皆まで言わせず、

龍馬りょうまどこや!」

 と目を剥いた。

「へい。稽古から帰って湯漬けを召しあがっちょります」

 聞くや足早に進んで行くと、障子をカーンと音を立てて開け放った。


「おぇ。どいたのだ? そがぁに茹でたタコみたいな顔して。何を怒っちゅー」

 龍馬と呼ばれた男が、きょとんとした顔で湯漬けを掻き込みながら返事をすると。

「われは犬か! 門に小便掛けるなと、何遍なんべん言うたら判る!」

 乙女殿は顔の横で固く拳を握ったかと思うと、拳骨でポカポカ頭を小突き始めた。

「お姉ぇ。待ってくれ。話したら判るき」

「判らんき、こうして性根に叩き込んじゅーのや」

 いつの時代も、弟が姉に逆らえないのは変わらないようだ。


宣振まさのぶ……」

 目配せするが、

「ありゃあ止められんぜよ。わしも大姉おおおねぇにゃ頭が上がらんし」

 打つ手無しと宣振は返す。

「前は回りも、嫁に行けんなると諭したもがやけんど。ああ見えて、今はご典医・岡上殿の御新造ごしんぞう様なのや」

「ご結婚なさっていらっしゃるのですか」

「ああ。後妻じゃが、赦太郎しゃたろう言う三つになる息子もおる。

 岡上家は隣の家やき、毎日実家に出入りしちゅーがよ」

 乾いた声で宣振は言った。


 結局、乙女殿の怒りが落ち着くまで、わしらはお地蔵様と為ったのだ。



「呆れたろう。こう言う家やき許いてくれ」

 わしに向かってぺこぺこ頭を下げた宣振は、乙女殿に向き直り、

「大姉。客人の前であっぽろけじゃ。あきれが天向てんむくぜよ」

 今のは土州言葉がきつ過ぎて、意味が取れなかったが、乙女殿の振舞いに呆れてなじって居る事だけは良く判る。


「おや。こちらのお方は」

 尋ねる男の顔に見覚えがある。写真でも銅像でも見知った顔だ。

「わしのしゅうだ。此度このたび新知で召し抱えられた。

 こう見えても、国持ち大名の子で上様の直臣だぞ」

 宣振は自慢げに言う。


 その自慢げな態度に、ふと悪戯心を催したわしは。乙女殿達が勘違いすることを見越した上で、事実をそのまま口にした。

「縁あって、宣振を家臣と致しました。

 微禄なれども宣振は大樹公たいじゅこう様をお護りする兵士つわものの一人にございまして、十五人の配下の指揮を任されしはえを賜り、大樹公様危急の際は直答じきとうを許されし身の上にございます」

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