試作品

●試作品


幸姫さちひめ様! いつお越しで。声を掛けて下されば良かったものを」

 横文字を翻訳していた良庵りょうあん先生が、漸くわしに気が付いた。

「賢人を待つのは、周の文王以来のためしにございます」

「持ち上げて頂けるのは有難いのですが、この通り夢中になり過ぎて。妻からは『少しは家の事も考えて下さい。覆水ふくすいは盆に返りませんよ』などと言われる始末」

 蘭学者だけあって頭の回転が早い男だ。わしが何かを言うとポンと返って来るのが小気味よい。


「いえいえ。大事を成す者とはそう言うもの。

 蜀の先主せんしゅも三顧の礼を尽くし、あまつさ忠武ちゅうぶ侯の午睡ごすいを妨げる事はございませんでした」

 わしが更に持ち上げると。

「わしも今年で三十五歳。幸姫様が十一ですから、二回り違います。どれだけ長生きせよとの仰せですか?

 よもや初産ういざん身罷みまかれるお積りですか」

 と切り返して来た。


「若い身空みそらを託す積りはございませぬ。少なくとも百までは生きる積りにございます」

 前世はそうであったのだ。しれっとして言うと先生は驚いた顔を創り、

「百まで? それではわしは百二十四になりますぞ。神仙にでも成れとおっしゃいますか」

 と返して来た。そこでわしは止めの一言を放つ。


「何を仰います。先生は、何れいおりせんがれるお方にございませぬか」

 良庵先生は、いずれお父上の名を襲名しゅうめいして良仙りょうせんと名乗られるお方である。

 これには先生も、

「ははははは。左様にございますな」

 と大笑い。



「所で、何をお悩みにございましたか?」

「牛痘の働きを示す、良き名前が思い付かぬのでございます。

 外国とつくにの学者が名付ける時、ラテン語と言う言葉を使います。

 牛痘は雌牛より掻き集めます物為れば、ラテン語のvacaの語を採りて仮名かなで『ワクチン』と名付けました。

 さて、これに漢字をどう当てましょう。適塾てきじゅくにて、幸姫様はこう言った造詣もお深いと伺いました」

 先生はわしに、何か良い案は無いかと尋ねられた。


痘瘡とうそうは器量定めと言われ、生き延びても必ず痘痕あばただらけになる病にございます。

 種痘をすればこれを免れ、顔にくぼみが刻まれる事は無い。相違ございまするか」

「確かに相違ございません」

「ならば、こう書くのは如何にございましょう」

 わしは矢立で懐紙にこう記した。

――――

 窪克鎮

――――

くぼみにちてしずめる。にございますか。

 語順が本邦のものにて、清国では恐らく『窪克わくの街』と言う意味になってしまいます。

 されど時文じぶん(現代中国語)で読みてワークーチェーン。響きは宜しいかと」


 こうして、牛痘の効力に窪克鎮ワクチンの名が付けられたのだ。

 それですっかり満足している良庵先生にわしは、

「夕べの使いで、化粧けわいの品が形になったと伺いましたが」

 本題を切り出した。



「こほん」

 咳払いをした良庵先生は、はまぐりの器を前に置いた。

 試作品の為、何の細工もしていない素の蛤そのままだ。


「お取りください。本の通り、薬を海綿に滲み込ませてあります。

 安全については試しておりますが、男の肌と女の肌は別物にございますれば、これから更に研鑽を続けねばなりますまい」

 未完成なれど、それは確かにクッションファンデーション。

「どれ……」

 と、顔に付けようとすると、

「お待ち下され!」

 良庵先生がわしの手を掴んだ。


「出来たばかりの品にございます。何があるかは判りません。

 それに、これは肌に塗る薬でございますれば、人に依っても効き目が違います」

「それでは、如何致しましょう」

「いきなり顔に付けて気触かぶれなど起こしては一大事。先ずは上腕の内を糠袋、できれば石鹸シャボンで良く洗い、少量を六分ほどの円に塗ります。

 それから四半時ほど置いて、赤み・かゆみ等の異変が無いかを確認。何事も無ければ、洗う事無くそのままで二日様子を見ます。

 それで特に問題が起こらなければ、初めてお顔にお使い下さい」


 良庵先生は慎重だった。

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