第四章 庚申上巳の変

商人の徳

●商人の徳


「ごめん下さい。柳屋ご隠居の後妻・お伊能いの殿のお屋敷にございまするか?」

 お春を供に、奈津なつ殿・あき殿ついでにふゆ殿を連れ、古道具屋の隣にある門前に押し掛けた。


「へい。貴方様は」

 出て来た下働きの者に

大江登茂恵おおえのともえと申します。

 実は此度このたび上様より、昔通信使より送られた書籍の写しを頂きました。

 なんでも世宗せそう大王と仰るの国の大名君だいめいくんが、おきさきの為に創らせた肌にも和子わこにも優しい化粧けわいの品とか。

 しかし、兎角儒者と言うものは、いにしえを好むもの。大学者たる李退渓りたいけい師に反対されて使われなくなった物にございます。


 は己を知る者のために死し、女は己をよろこぶ者のためにかたちづくるもの。

 されば化粧は女の忠義。女が水銀粉はらや白粉はふにを害がありと避けるは、士が命を惜しみ諫言を怠るに当たり、女人の化粧を簡便にするのは、王をして罷漏ひろうの鐘に覚めず、王世子(王太子)が経筵けいえんおこたるに等しい。


 こう、朱子学の泰斗たいと・李退渓師は仰られたのだとか」

「へ、へい」

 お伊能殿もそこまでの教養は無いと見え、頭の上でクエスチョン・マークが回っているようだ。


 余談だが、韓流に嵌った娘や嫁達に教わった話では、

 罷漏とは午前三時に三十三回打ち鳴らされる朝の鐘の事であり、経筵とは朝廷で執り行われる日課の勉強会の事である。

 王の日課は、城門が閉ざされる午後十時に二十八回鳴らされる人定じんていの鐘を過ぎるまで政務が入って居たから、就寝は午後十一時には為っていただろう。

 睡眠時間は、昭和中期の受験生かナポレオン並みの四時間を切ることもしばしばと聞いた。


 前世で起床ラッパが午前の五時半ないし六時。消灯ラッパが午後九時であったことを思えば、まだ古参や上官の雑用に追い使われる初年兵のほうが睡眠時間を確保できた計算になる。

 それを告げると一様に、

「軍隊よりも厳しいの? 王様って大変ね~」

 と同情していた。



「解りやすくお話すれば、安全で使い易い白粉の作り方が書いてあるのでございます」

「それで、あっちになにか」

 めんどくさがっているお伊能殿にもわしは手短に話す。

「お伊能殿は、鬢付油びんづけあぶら栁清りゅうせい香で名を成した、柳屋のご隠居の後妻と伺います。

 ご隠居のせがれ殿は、身請けされて程無く後家と成られたお伊能殿を憐れんで、これも親孝行と身の立つようにして下さいましたとか。


 私はこの新しい白粉の製法を、然るべきおたなに任せようと思います。

 お伊能殿。幸いにしてお店の扱いは化粧の品。何を食べたいとも思わぬ身の上にしてくれた、ご隠居様や倅殿に報いてみる気はございまするか。そして、出来得るならば化粧の品に名をかむせ、ご自分の名を千載までも残したいとはお思いになりませぬか?」



 そう言った翌々日。わしは供の宣振まさのぶと共に柳屋を訪ね尻を持ち込んだ。

「この新しき化粧の品は、お店に商売を任せます。創る銭は私が出します。如何に」

 わしは写本を紐解きながら説明を終え、お店の大番頭に決断を求めた。

 資料と開発費用こちら持ちで商売を一任。化粧品を扱う商人あきんどならば、門前払いはせぬだろう。

 まして、一応は先代の後家を通してのプレゼンだ。


 果たして大番頭は、

「ご差配様が銭を出して頂けるのでしたら、手前どもには嫌はございません。首尾良く行ったとして、名付けは如何なされますか?」

 と食い付いて来た。儲けの分配の話をしないのは、まだ上手く行くとは限らず、武士であるわしをおもんばかってのことであろう。

滝本たきもと後家ごけ殿の源氏名を与えてみるのは如何でしょう?

 後家とは言えまだ若い身空。滝本で化粧して、程好く遊山の場に足を運べば。世間に品の良さは伝わりましょう」

「なるほど。悪くはございませんな」

 大番頭は頷く。

「おいえのような近江商人は、全てが得するを以て徳と致すと伺いまする」

 わしは指を折り、

――――

 ひとつ、安全な白粉おしろいが出来て、私も世間も満足。

 一、おたなの宣伝の為と言う大義名分を得て、堂々と遊山ゆさん出来て後家殿が満足。

 一、あきないが増えておたなが満足。

――――

 と、それぞれの利を示した。


「如何にございまするか?」

「悪くはございませんな。

 後家とは申せ、お伊能様はまだお若い。髪を落として読経三昧は辛いでございましょう。

 さりとて遊山三昧は、手前どもの評判にも関わります。

 確かにそれが程々でございましたら、新しき白粉を弘める看板となるやも知れませぬ」

「では、こちらからの窓口は、後家殿にお引き受け頂けるようお願い致します」


 そう言って、わしは開発資金として手付けの切り餅(小判を紙でまとめた物)を置き、すっと畳の上を滑らせた。

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