お伊能後家

●お伊能いの後家


幸姫さちひめ様」

 呼び止めた僧体の若者に見覚えがあった。京で出会った薩摩の人だ。

竜庵りゅうあん殿。いつからご府中にいらしたと」

 悪戯心で薩弁で返す。


「なんと。姫さーは薩摩ん言葉をご存知じゃっとな」

 驚きの声で返す。

「で、何の御用と」

 と尋ねると。他国者には判り難い薩摩言葉の利を考えて言葉を変えた。


「今良かか? 天狗んこっでお話があっと」

「トシ殿、島崎殿。所用が出来ました。宣振まさのぶ参りますか?」

「わしは姫さんの護衛やき」

 当然付いて来る。



 案内されたのは、古道具屋の前だった。

「ここは彦根ん御用達。赤鬼羽林うりんのご家来衆が出入りすっとこだ」

 竜庵殿は声を潜めて耳元で、

「隣は、とあっ豪商ん隠居ん囲われもんの家で、水府すいふもん出入りすっ家でごわすど。ここだけん話。天狗と繋がっちょっらしい」

 と言った。

「囲われ者にございまするか? それと薩人さつじんとどのような関りが」

 すると竜庵殿は苦々しく。

弊藩へいはんもんが関わっちょっ。二才にせ殿どんだが、気性が火ん玉や」

「なるほど。好青年ですが、激しい御方なのですね」

 すかさず言い換えると、

「ほんのこて、幸姫さちひめさーっちょい殿どんじゃなあ」

 前世のお国言葉だから知って居るだけなのだが、それを物知りだと感心されても当惑する。



 さて。ここは元吉原の遊女・滝本たきもと。本名を伊能いのと言う女の家だ。

 お伊能は、とある豪商の隠居に身請けされたのだが、程無くご隠居は病を得て鬼籍に入ってしまった。

 そこで隠居のせがれは憐れんで、家財道具とこの家まで与えてくれたそうだ。


 水府の者との繋がりは、遊女時代の馴染みの一人。身請けされた後、後家となって、誰に従う必要もない自由の身となったお伊能は、訪ねて来た昔馴染みの客と再会し、焼け木杭ぼっくいに火が着いた次第。


「そいでお伊能は、相手がないをしちょっとかも知らんごたる」

 知らないようだと竜庵殿は溜息を吐く。

「天狗ん事じゃ。ないか良からん事を企んでおっんやろうか」

 良からぬ事を企んで居るのでしょうかと尋ねると。

「そんこっだ。姫さーに助けて貰おごたっとは」

 助けて貰いたいのはそのことだと竜庵殿は頭を下げた。


「姫様は一人んおなごとして、ないも知らんで利用されちょっお伊能を哀れとお思いやろう」

 竜庵殿は先ず、わしの情に訴えて来た。

「こんままでは、天狗が大それたことをしでかした時、お伊能は連座を免れん。

 連座でってもないか知っちょらんかと拷問に遭う。そいでだ」

 にやりと笑う竜庵殿は

「姫さーは堂々と川越んひとやを破ったち聞いた」

 と切り込んで来た。


「ほんのこて、竜庵殿どんは油断なりもはんね」

 本当に油断ならない男だ。どこから仕入れて来たのだろう。あれは無かったことに為った筈。


 ともあれわしは、

「判った。悪かようには致しもはん。尤も、そんたお伊能殿どん次第じゃっどん」

 お伊能次第ですがと釘を刺して置く。

 加えて、

「勿論、竜庵殿どんお力も使わせて貰う」

 と付け添えると。

「おいどんに、しきっこっであれば」

 出来る事であれば。と余計な言質を与えない竜庵殿。


 視線を宣振に移すと、

「姫さん。おんしゃあ、町方といくさをするか? いよいよの時は遠慮せず遣らかすがええ。

 任せちょけ。みんなわしが斬って遣る。わしゃあ姫さんのつるぎやき」

 お国言葉で解りづらかったことだろうが、概ね理解した宣振が胸を叩いて請け合った。



 わし一人の力ではないが、今のわしには少しばかりのいきおいがある。

 あくまでも出来る限りではあるが、お伊能と言う女を助けてやろうとわしは思った。

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