大奥の椿事1

●大奥の椿事ちんじ


瀧山たきやま殿。いい加減、顔をお上げなされ」

 上様に敬語を遣わせるこの女は、大樹公たいじゅこう様付御年寄おとしより

 大御台おおみだい様が移り、大樹公様にまだ御台みだい様が御座おわしませぬ現在。

 大奥に君臨する最高権力者である。


 大樹公様が一番上? いやいや。位は上でも実は違う。

 昭和の時代で言えば。新米少尉殿が歴戦の軍曹をたのみみとし、医師が研修医時代世話になった婦長殿に頭が上がらぬのと変わらない。

 僅か数えの十三歳で十四代大樹公と成られた当代様は、今も数えで十五歳。瀧山様は確か還暦間近いお歳だと伺っているから、この時代だと祖母と孫の歳の差だ。これでは遠慮するのも已む終えぬ。


 何度も何度も促され、やっと面を上げた瀧山様。そのお顔は伺っている御歳にはとても見えない。

 上に見積もっても四十路半ば。


「上様。新しき白粉おしろいはいつ出来上がるのでございましょう。

 柳屋と蛮書読みが作って居ると伺いましたが、もし金子が足りぬ為遅れて居るとのことであれば、大奥のついえを割き与えても構いませぬ。

 これは瀧山一人の望みではなく、下はおしたから上は上臈じょうろう年寄としよりに至るまで、等しく渇望せし輿論よろん(大勢の意見)にございます」


 なるほど。新しい化粧品を使ってみたら、瀧山様のようにお歳を召した方でもこのように若返った。

 少し若い四十路の飛鳥井様ならおしとね御免ごめん間もない歳に見えてしまう。


 これは大奥を揺るがすに足る椿事。判り易く言い換えれば思い掛けない大事件であろう。

 研究途中でこれならば。もっと若い者ならば……。大奥の者達は恐らくこう考えたに違いない。


 そして、大樹公付御年寄・瀧山様お一人だけでも重臣の皆様を凌ぐほどの権勢があるのに、大奥の総意とあれば大樹公様をも逆らい難き圧力と成る。


「詳しくは、そこの登茂恵と図るが良い」

 あ。大樹公様が逃げた。

「良いな。新しき白粉の話は、全て登茂恵に任せてある」

 武士の統領であり、八島を治める権力者とも思えぬ、見事な逃げっぷりだが、


「お待ちください。上様の決済が! 今行かれては白粉が滞ります」

 未だ先の発砲の話が済んで居ないのだ。逃がしはせじと呼び止めるわし。

 瀧山様はひしと袴に縋りつき、物理的に大樹公を拘束した。

 わしと瀧山様の合うたる手際は凄まじく。お互い良い仕事をしたと言う顔になった。



「ところで登茂恵。その額は如何いかがした」

 瀧山様のご下問にわしは正直に答えた。

「はい。名誉の傷にございまする」

「傷! 女の身で顔に傷とは、いったい何事じゃ」

「はい。朝の御門の一件で、彦根中将様を襲った賊と戦い、額に傷を受けましてございまする。

 上様に置かれましては、その事について報告するよう手当の終わったばかりの私をお召しになりました」

 耳にするなり瀧山様は、大樹公様をきっと睨みつけた。


「上様。わらわは表の事を存じませぬ。されど道理と言うものは奥も表もございましょうか?

 押し掛けたわらわを厭うのはまだしも、登茂恵ともえを召したのは上様にございます。

 召した用事も済まさぬままに、ご退出とはいかなるご英慮えいりょにございましょう?」

 正論故、ぐうの音も出ない大樹公様。

「これは表の事。奥の妾が邪魔と仰せであれば席を外します。先ずはお召しになった登茂恵の話を終わらせて下さいませ」

 そう言って立とうとするところを。

「構いませぬ。誰に聞かれても拙いお話ではございませぬゆえ。寧ろ、話を打ち切られる事の無きよう、上様とて蔑ろに出来ぬ御方の立ち合いを望みまする」

 そう言って、わしが話の主導権を握った。

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