白い虹5

●白い虹5


 前世の孫が読んでいたマンガだが、アメリカンボールの選手の物語でこう言う話があった。

 コーチがチョークを黒板で折り、何の変哲もないチョークでこのように簡単に折れることを目の前で見せた。

 次に弾体の無い薬莢にチョークを差し込み。銃で黒板に向けて発射すると、あれほど脆かったチョークが黒板を貫通した。

 これが、ブロックはこのようにせよとの訓えなのだ。


 つまり簡単な物理の法則である。物質の持つ運動エネルギーは質量に比例し、速度の自乗に比例する。

 だから、体重と膂力に劣るわしが成す事は唯一つ。全力をもって加速して、最高スピードで激突する。衝突の瞬間もその後も、足を使ってさらなる加速を心掛けるのだ。


 円匙と薩摩拵えの刀が交差した時。鉄火が彼岸花のように弾け、キィーンと鋼が悲鳴を立てた。


 ゆうこく。二つの漢字が脳裏に浮かんだ。

 優は心体に優れし有村殿を象徴する一字。剋は身軽なこの身と前世百歳の経験を武器に、耐え抜いて打ち勝つべきこのわしだ。

 有村殿の膂力りょりょくまさるか、それともわしのはやさがつか。

 その答えは直ぐに出る。


 刹那にして有村殿の刃はわしの円匙えんぴの半ばに至り、抵抗を受けつつさらに切り裂いて行く。

 一分刻みに割かれて行く円匙。もしも得物が只の刀であらばとっくの昔に切り飛ばされて、わしは唐竹割りに真っ二つであったかも知れない。



「きゃあぁぁぁぁ!」

 お春の悲鳴が聞こえる。

 わしと有村殿の灰色の世界に彩が戻って来た時、その三分の二まで切り裂かれた円匙は、分厚さ故に堪えて勝ち、刀を砕いて有村殿の左袈裟にめり込んでいた。鎖骨を砕き平成の医学でも救い難い致命傷を与えて居たのだ。

 しかし有村殿の執念の刃は、砕かれてなお闘志を宿しわしの額を捉えて居た。被っていた鉄兜を割って。

 本来ならば頭蓋をも断って居た筈の刃だ。それが肉で止まっている所を見ると傷は浅い。


「済まん。おなごん顔に傷をつけてしもた」

 わしの額から流れ落ちる血を見て、苦しい息で話し掛ける有村殿。

 致命傷だが、死ぬまでにはまだ間がある。

「情けなか。自決すっ力も残っちょらんのか」

 有村殿には脇差を抜く力も残って居なかった。


「介錯致しましょうか?」

「けじめじゃ。介錯は要らん」

 言って有村殿は、

「じゃが、辞世を留めおきたい」

 とこいねがい、わしが用意を整えると、辞世を詠んだ。

――――

 磐鉄いわかねも くだかざらんや 武士もののふ

 国安かれと 思い切る太刀

――――

 書き止めてわしが見せると。

「そいで、好か」

 と口元を緩めた。


 もはや助からないが、魂の緒は未だ、現世の名残を惜しんでいた。

 有村殿は地面の雪を掬って口に入れようとしている。当時、切腹の時に水を飲めば、介錯無しでも早死にできると言われていたからである。


「これを」

 見かねたお春が竹の水筒の栓を抜いて口に着けると、有村殿は二合以上あるそれをごくごくと飲み干した。

有難あいがとな。こいがおいん末期ん水か」

 言ってその目はお春とわしを見つめたまま、次第に光を失って行く。

「おしえんとおり……やりとげたじゃ。おっ……かん」

 教えの通りにやり遂げましたよ。母さん。と息を吐く声で唇が動いたのが有村殿の最期であった。


 わしはその目を掌で閉じさせて、

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 と念仏を十回唱え、

「死ねば皆、仏様にございまする」

 辺りに響き渡る声で、呼ばわった。



 この年、文長ぶんちょう七年は庚申こうしんの年に当っている為、この事件は後に庚申こうしん上巳じょうしの変と呼ばれることに成る。

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