名誉の負傷

●名誉の負傷


「縫う前に消毒いたします。目を瞑り息を止めて下さい。沁みますよ」

 確かに沁みる。良庵先生は今、噴霧器を使って石炭酸をわしの傷口に吹き付けているのだ。

 これはこの当時における最高の消毒法であり、傷が膿んだり入り込んだ細菌が身体を蝕むのに比べれば遥かにましだ。しかし後の方法に比べれば荒っぽい。石炭酸で傷に更なるダメージを与えるからだ。

 そうしておいて、良庵先生はわしの髪の毛を一本切り、石炭酸を潜らせた。これを糸として傷を縫うのだ。


 これは下士教育で受けた座学で、兵でも衛生兵なら常識なのだが。傷を縫う糸は絹など植物性以外の物でなければならない。

 必要な時に出来ればよいと言う考えの教育だから、わしは理由については教わっておらぬ。しかし口を酸っぱくして何度も出て来た話だから、植物性の糸を使うと何か拙い事でも起きるのだろう。


 この後、何度かチクチクと針を受けたが、痛みは殆どなかった。寧ろ石炭酸で受けた痛みの方が痛い。

 まあわしは、前世の戦地で麻酔無しで弾の摘出手術を受けたこともあるから、このくらいは屁でもないが。



「彦根中将様はご無事でしたか?」

「御典医の治療を受けておいでと伺いました。ただ、メリケンの物を模した短筒の弾をお腰に受けたらしいです」

 流石に無事では済まなかったか。

「居合の達人であらせられる中将様が、お駕籠の中で動けなかったそうですから、お怪我はあまり宜しくないのでしょう。詳しいことはまだ……」

 判るのは運ばれた時点では死んでは居らぬこと位か。


「他の者達は?」

「おふゆ殿を庇ってお伊能いの殿が太股に短筒の弾を受けた他は、大した傷を受けてはいません」

「弾は?」

「幸い抜けて居りましたので消毒して縫いました。くぼんだ痕は残るでしょうが命に別状ありません。

 わしの診た所。治れば歩行に支障は出ないと思われます」

「それは良かった。他の者は?」

「得物の長さや鉄砲の威力。そして二人一体の戦いが功を奏したのでしょう。怪我人数名は一番重い者でも、顔以外を皮一枚切った程度です。

 まあ、あの程度の傷を厭う男など、若さの盛りが失われれば忽ち浮気を致す程度のやからですから気にしなくとも宜しい。

 正直お伊能殿を除けば、わしの見立てではあなたが一番酷いですよ。全くもう。刺客と一騎打ちとは無茶をなさる」

 と渋面しぶづらの良庵先生は、

「しかし、ご運が宜しい」

 と話を続ける。


「ほぼ、目を閉じたり開いたりする時に出来る皺と平行に、綺麗に切れております。

 場所が場所だけに、傷が塞がれば恐らくあとは目立たぬことでしょう」

 今世は女に生まれたせいか、良庵先生は傷は治れば目立たない。と言う事を強調した。


「そうでございますか」

 しかし、それがどうしたと言うわしに、

「少しはお気になさいなさい。顔は女の命ですよ」

 と苦言を呈す。

「女の命は髪と聞きますが……」

「髪は剃ってもまた生えます! 時間が掛かってもすっかり元通りになりますでしょう。

 お顔の傷はそうは参りませんよ」

 良庵先生は声を荒げた。



 膏薬を塗られ額に包帯を巻き終えた頃。

登茂恵ともえ様。上様がお召しにございます。駕籠かごを遣わす故、医者が止めぬなら直ちに参れとのお下知にございます」

 大樹公たいじゅこう様のご使者が遣って来た。

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