牢人軍次
●
立ち上がった牢名主を見て、思わずわしは身構える。
背筋に棒を突き立てた様にブレない男だ。そして振舞いや、きゅっと
「恐ろしい餓鬼だな。判った。取り敢えず客分格で扱わせて貰う。いいなお前ら」
牢名主の彼が戦いの終りを告げた。
そして、特有の断末魔の呼吸をしている三の字に跨ると、左胸に一度掌を当てて、骨も砕けよとばかりに強く押し込み、耳を当て具合を確かめると、後はリズミカルに押下を続ける。
「うわぁ……」
乾いた声がわしだけではなく辺りからも漏れる。
よくもまあ、むくつけき針の髭の大男に口吸いなど出来るものかと。
そう。遣っているのは、所謂心臓マッサージと人工呼吸だ。
わしの手を明かすと、三の字の胸を打って心臓
機と角度と拍子が合わされば、小学校低学年が子供の顔くらいの大きさのボールを投げつける力さえあれば良い。ドッジボールで胸受けが厳禁とされるのは
決まれば当に一撃必殺。敵は独特の
まあ大の大人の場合は子供程には簡単に心臓震盪を起しはしない。しかしその場合も心臓に強い打撃を受けると身体を静止させることが出来き、短時間でも身動き取れなくしてしまうのだ。
こうして短いと言っても、無防備になった奴を殺す手段はいくらでもある。
「小僧。どこで柔を習った」
三の字の蘇生を確認した後。牢名主の浪人は、わしを針の様な細い
「いいえ。習っては居りませぬ。ほんの真似事の
「嘘
それにお前。既に人を
嘘ではない。今世では習っておらぬ。
「
牢名主の口から。平成の御代では、いや昭和も四十八年以降は死語となった言葉が飛び出た。
何故昭和四十八年かと言うと。その頃、赤胴鈴之助がテレビまんがになって放映された為である。
歌も一番の歌詞を、
因みに猪口才とは、お猪口程度の小さい才能を意味する。転じて、生意気だとか小賢しいとか言う意味を込めて相手を罵る言葉として使われた。
優劣の付かぬ場合はまあ良いが、間違っても赤胴鈴之助冒頭のような負け惜しみに使うのは避けたい。
なぜならば回りから、大した実力も無い癖に年功だけが取り柄の咬ませ犬に見られてしまうからだ。
「猪口才とは心外な。風呂桶程度はある積りにございます」
つらっと言い返す。
だが、そんな未熟を期待するのは虫が良過ぎた。
牢名主の男も柔を使うと見え、僅かにわしが左足に重心を移し掛けると早速呼応して待ち構える。
尺取りに足指を使い、寸刻みならぬ
互いの機を計り。わしと牢名主、二人の呼吸が同調する。
「遣り難いな」
牢名主が呟いた。それはわしも同じ、少なくともわしらは大元は同門の術を身に付けていると見た。
剣術でもそうだが。技と言うものが編み出されると、必ず返し技も考案させる。そしてさらにその返し技の返し技も。
そう。ある段階では正解だったことが、進んだ段階では引っ繰り返るなどざらにある。
ここで技の術理を解説した所で、チンプンカンプンだろうから譬え話で説明しよう。
孫の一人。佐藤の所のぷんこ……もとい、
彼女は王選手が世界記録を更新した年に学校に上がった子なのだが。母親が持たせようとした傘を、いつもの癇癪を起して玄関の外に置き捨てて学校へ行った。
二時間目から降り出した雨は止まず。晴れろ晴れろと念を込めて落書き帳に書き綴ったテルテル坊主は、帰りまでに帳面を埋め尽くす勢いであったが、一向に止まぬ。
それで玄関口で難渋して佇んでおった所、拾う神在り。わざわざ家まで届けてくれた学友が居る。
確か
その時の余興で桜井君が出したクイズが
「石百グラムと綿百グラム。どちらが重いか」
で、文子めは即座に石の方と答えた。すると桜井君は、
「はい、外れ。石百グラムと綿百グラムは同じ重さです」
と正解を教えた。
この時、文子めはいつものように
「ぷん」
と言いそうになったけれど、らしくもなく我慢が効いたと言う。
一般的には桜井君が正解だ。しかし学問が中学高校と進んで行けば話が変わって来る。
例えば、凡そ液体や気体の中にある物は、自分が押し退けた体積と同じ液体ないし気体の体積分の浮力を得る。そう有名なアルキメデスの法則である。
例示の問題では、地球の大気圏の中と言う前提があることに注意しよう。綿百グラムの嵩は、石百グラムの嵩よりも大きい。つまり空気の浮力を勘案すれば、綿の方が軽くなるのである。
新しい概念を勘案すれば、それ以前の常識は覆る。武術もこれに似た所が有るのだ。
わしは我攻めを諦めて、牢名主の吐く息吸う息を計る。
人間とは不思議なもので、弓を引く・刀を振り上げる等、攻撃予備動作の時に息を吸い、当に攻撃に移るその瞬間に息を止める。
攻撃に移行した後は吐くことが多い。なぜならば気合と共に攻撃を繰り出せば、肉体のリミッターを外す事が出来るからだ。
「はははは!」
牢名主は豪傑笑いを発し、実にゆったりとわしを待ち受ける。
「風呂桶
その言葉に、わしと牢名主を除いた辺りの
「なあ。もう止めにせぬか?
わしも負けるとは思わないが、お主と
ツルは要らん。手も出させないから暴れんでくれ」
「私としても。あなた様方に対して
尤も、藩や役人に対しては徒で済ます積りは毛頭無いがな。
「わしは、元・
「私は……」
名乗りを返そうとした時、鎮まった無宿牢に
「何をしてるか! さっさと開けろ!」
慌てふためいた声と共に、まるで戦場の伝令の如く駆けこんで来た者が居た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます