第三章 時のあしおと

狡い悪党

こすい悪党


 晴れた日の続く師走の末。

 祐天ゆうてん殿が破軍はぐん神社に訪ね来て、七重八重に膝を折り、このわしを拝まんばかりに額を畳みに擦り付けた。


登茂恵ともえ様。世話になった。

 常の喧嘩なら十念じゅうねん受ける暇も無く、一人や二人は死いじゃうもんだ」

 死に行く者の為に、念仏を十回唱えて遣る間も無く死んでしまうと零す祐天殿は、はぁ~っと大きく息を吐き、言葉を紡ぐ。

「傷浅くても簡単に膿んで、命取りになる。

 ほれがよ。お医者に掛かれ、誰一人として傷口膿むことも無く達者でいる」

 圧倒的感謝の念が満ち溢れているのが判る。


「それは良庵りょうあん先生を始めとする方々と、皆様の生まれ持ちたる天命に因るものにございます」

 わしが窘めても祐天殿は首を振り、

「けんど、たけぇー薬を惜しげも無く。しかも銭では買えんもんとか」

 と拝まんばかり。



 使用したのは強いアルコールと、猿播さるはつまりはサルファ剤。尤も、赤い染料にしなくともその前段階で薬効を現すため。そちらを猿播と呼んでいる。


 猿播は巨勢こせの秘薬と言う事にしてある。如何に良薬と判って居ても、これをひろめる為には無数の臨床例を必要とする。

 酷い言い方をするのならば、玉川たまがわ御前ごぜん出入りで出た大量の負傷者達は、臨床試験に使われたのだ。


 わしの前世は職業軍人。そして戦後は化学畑の人間であり、医学の心得は衛生兵程度。

 猿播を創る事が出来ても、使いこなす事など出来やしない。それだけ猿播の使用は難しいのだ。

 なんとなれば。前世の歴史ではサルファ剤の誕生が、医師免許の始まりでもあったのだから。



「お気に召さりませぬように。

 此度こたびの喧嘩にいて、八方手を尽くしたと申しました。

 只の一人でも、軽い手傷で命を失うとあらば。まして喧嘩の後に手当てを受けれぬとあらば。

 手を尽くしたと言えるのでございましようか?」

「ありがてー。ほんにありがてーこんだ」

 わしの手を押し戴いて涙ぐむ祐天殿。


 傷口を一度煮沸させた湯冷ましで洗い、アルコールで消毒し縫い合わせ、包帯で縛った後。

 消毒済みの部屋に隔離して、猿播を与えた。

 言ってしまえばこれだけの事だ。しかし、


「今まで、浅い傷でも膿んで死ぐようなことは珍しく無かった。

 昼には、このくれー 唾付けときゃ治る。ってた奴が、夜には熱出しておっんじまう。

 ほんなのを一杯いっぺー見て来た」

 しかし成すすべも無く、見送るしかなかったと祐天殿は言う。

 だからそう言う事が無かったことを心から、有難い事だと感謝しているのだ。


「ならば約定通り、一切の遺恨は水に流しますね」

「へい。この御恩は必ず。ご差配様の為なら、一家三百。いつでも駆け付ける」

 祐天殿は申し出た。



「手も無くうげくりかえりゆう」

 祐天殿が帰ってから、ぼそりと宣振まさのぶは口にした。簡単に大喜びしていると。


「姫さんは意外と、へこすい悪党ちや」

 近頃はこ奴も言う様に成って来た。狡賢ずるがしこいとわしを弄る。

 他人と会う時は、護衛として左後ろに立ち一切を目にしていた彼だけに、わしの遣り口を良く見て来た。

 為に、いい加減遠慮も無くなって来たと見える。


「能ある味方は、幾らいても足りませぬ。国士の心がれるなら、やれることは全てやるべきでしょう」

「やけんどな。姫さんのは火付して、煽って煽って、消しに掛かっちゅうやき。乱暴がいな手口や」

 マッチポンプだから乱暴な方法だと宣振は言う。


「おまけに姫さんのは、押し拉いだ後にやさしゅうするき、たちが悪いぜよ」

「それが兵法へいほうにございます。宣振を始め、英雄の心を盗るのに手段を選んでは居れませぬ」

「かぁ。ここでわしを挙げる姫さんは人誑ひとたらしにゃあ」


 こうしてわしが、慣れ親しんだ宣振とじゃれて居ると、


「ご差配様」

 きゅっきゅっと鴬張りの廊下を踏み鳴らし、軍次ぐんじ殿が遣って来た。

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