赤面

●赤面


 上州に参るには、中山道を板橋宿まで進み、途中の平尾追分より川越児玉往還おうかんの脇街道に抜ける六つの駅次えきつぎを辿る。後のほぼ国道二百五十四号線に当る道を行く。


 上板橋村を過ぎ下練馬村に到る頃には、夜短の夏の日も傾き始めていた。



「やるじゃねぇか」


 褒めるトシ殿。

 日本橋より板橋まで三里。ここから白子宿までが三里弱。そして大和田宿まで三里弱。


「流石に川越かーごえまでの五里は無理だ。おら一人なら辿り着けるが、坊主だと日が暮れて宿も取れねぇ。

 次の大井中宿までは一里半。坊主でも行って行けねぇ距離じゃ無ぇが、今日はここで宿を取ろう。

 なぁに、無理して急がなくとも明日の昼過ぎにゃ川越だ」


「そうでございますね。気に身体が付いて参りませぬ」


 戦地の行軍を思えば、敵襲も無く泥濘も無い道程みちのりで、女旅の旅程としては平均的な距離なのだが。今の子供の身体には少し堪えた。

 やっとうの稽古で腱はかなり鍛えられ、調整力や瞬発力と言う意味では前世に近い力を持つことが出来た。力の遣い方のコツを身に付けているので、少ない筋肉でも十全に活用できるのだ。


 まあ、体の軽さ故のハンデはあるが、殺し合うならば何も問題はないだろう。

 しかしこのような持久力と言う意味では子供の身体では数段下がる。今は考えずとも構わないが、何年かすると女の身体が足を引っ張るであろうことは想像に難くない。それまでに対策を講じて置く必要がある。



 旅籠を選ぶと、前世より勝手知ったる巻脚絆ゲートルを解き、足湯をご馳走になる。

 手拭いを浸けて搾り顔や首を拭うと心地良い。浸けて絞り身体を拭いて、最後に足を浸す。

 石鹸も無いタライの湯だが、塵の汚れと共に疲れまで洗い流してくれる。

 足指の間まで良く洗いつつ足の裏を親指で揉む。余裕がある今こそ、ここで疲れを揉み出しておかねば明日の歩みに差し障るからな。



 あてがわれた二階の一間に入って、ごろんと寝転び漱石の坊ちゃんの如く畳の上に大の字になる。

 歩きで火照った身体から蒼さの残る畳表に熱が溶け出して、お香を焚くが如く日向ひなたの匂いを燻らせる。

 ぼーっと辺りを眺めると。窓には葦簀よしずが掛けられており、へちまの葉影を映していた。

 さやっと蔓を這わせたいとが揺れた。と見る間に、そよと分け入る一脈いちみゃくの涼風が、胸や顔や頭から立ち昇る湯気を掃う。



「ははは。ひでぇ格好。はかまで無けりゃ見えてっぞ」


 凡そ女らしさの欠片もない振舞いに、トシ殿は笑う。


「旅の恥はなんとやら。私もあちゃの前では遣りませぬ」


おらぁ、そのあちゃじゃねぇからな。湯上がりに服着ねぇでそれやっても怒りゃしねぇぞ」


「袴だからこそ遣っております」


 すっぽんぽんで遣ってみなと揶揄からかうトシ殿に、遣りませんよとあかんべを返す。



「弁は立っても子供だなぁ。よっぽど草臥くたびれたみてぇだなぁ、おい」


 笑いながらトシ殿は、


「どれ。うつ伏せに成ってみ」


 とわしに言う。


「こうでございますか?」


「おう」


 太股に足を掛けてくいっと踏んだ。その重みの掛具合が丁度良い。くいくい踏むたびに力が湧いて来るようだ。



「どうだ?」


「いい塩梅にございます」


 トシ殿の力加減は絶妙で、まるで按摩を頼んでいるような感じだ。

 暫く踏まれるままに身を任す。



「どうだ坊主。しゃんとしただろ」


「真に」


「じゃ。今度は俺を踏んでくれ。おぇならそのまんま乗っかって、踏んでくれりゃぁ丁度いい。

 脚から首筋まで頼むな」


「こうでございますか?」


「お。いいぞ、それそれ」


 腰に乗って足踏みすると、わしの体重が丁度良いらしい。

 背骨の横。英小文字の「m」を描く筋肉の頭を踏みしめながら、腰から肩の付け根までを行ったり来たり。



「はぁ~。いい~気持ち」


 温泉に浸かった様な声が漏れて来た。


「トシ殿は女に踏まれるのがお好き……。ご府中ふちゅうに帰りましたら、広くお伝えいたしますね」


「ちょっ。待てコラ。それじゃ俺が変態じゃねえかよ。

 第一な、誰でも彼でも乗っかられたら背骨が折れちまう」


「私だと丁度宜しいので? でしたらもう少し踏みましょうか?」


「ん? ああ……。頼む」



 また暫く踏んで、止めようとすると、


「頼む。もうちょっと」


 と言うので


「仕方ありませんね」


 と続けて遣る。



 そんなことを遣る内に、夜のとばりが降りて来る。

 めしの匂いと足音に頃合いかとわしは切り出した。



「もう止めますよ」


「んぁ? もうちょっと……」


「もうちょっともうちょっとと言いつつ、一刻いっとき近く。お返しとしては十分かと思いますが」


「頼む。もうちょっと」


「なるほど。帰ったらあちこちにお伝えします。トシ殿は私の身体に止み付きと。

 気持ち良過ぎて放してくれないと」


「おい! 人聞きの悪いこと言うなよ」


「あはは。トシ殿、嘘は言っておりません」


 ひょいと飛びのいて畳に座る。


「あ……」


 トシ殿が起き上がると。顔を真っ赤にした宿の女が、膳を横に置いて襖を開け放った格好で固まっていた。

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