川越へ

●川越へ


 旅籠の物はとにかく熱い。

 五右衛門風呂は茹るほどだし。夜は兎も角朝飯は熱い。炊き立てを直ぐ食べる美味さはあるが、おさいは沢庵と梅干しと酢味噌和え。それに舌を焼く味噌汁が付く。

 旅籠の朝は慌ただしい。旅人達は少しでも距離を稼ごうと暁闇ぎょうあんを衝いて歩き始める。

 多くは寅の刻、即ち平成で言う午前四時位には墨絵の空の下を旅立って行く。



「弁当だ」


 そっけなく突き出されたのは、頼んでおいた昼の弁当。竹の皮に包んだ五分搗きのが握り飯二つ。

 痛まぬよう梅干しと山葵漬けを具に入れて、表面を炙って焦がしていると聞く。高いから海苔は使って居らぬようだ。

 添えに沢庵二切れを付けて五十文。人足の日当が凡そ二百五十文と聞く、草鞋一足が二十文だから中々に高い。

 昭和二十四年に定められた失対(失業対策事業)の日当が二百四十円であったから、文の数字をそのまま使うと当時の物価と比べる事が出来る。


 あの当時米一升が二百円で買えた。米二合五勺の値とすると、木賃きちんや手間賃を考えると妥当な値段だ。

 だが待てよ。今世も前世の戦後間もないあの頃も平成と比べて米が高かったから。代わりに大卒の初任給から計算すると……あの頃は四千円強で、平成では二十万強。数字に四十を乗ずれば良いとして……。ふむ、だいたい平成の二千円と言った所。

 高っ。米余りの飽食の時代の記憶もあるわしとしては、今更ながらに米の飯の高値を感じた。



「おーい登茂恵ともえっち。難しい顔してあに考えてんだ?」


 目の前で手がひらひらする。


「やっぱ。昨日無理して疲れたか? なんならぶってやろか?」


 殊更わしを子供扱いするので意趣返し。


「トシ殿は、夕べの一件で私の身体を忘れられなくなったのでございますね」


 肺に空気を吸い込んで止め、ぐっと息んで「ぽっ」と音が出るくらい顔を赤らめて見せる。


「人聞きの悪りぃこと言うな!」


 平手で頭を叩いて来たのは、甘んじて受け止めた。

 視界の端に、この様を夕べの膳を運んできた女が顔を赤らめて見ていたのは、トシ殿には黙って置こう。



 また宿場の内だと言うのに足元が暗く提灯を必要とする道を進んで行くと、木賃宿の界隈に辿り着いた。


「あんちゃんあんちゃん! 待ってたよ」


 越後獅子装束の少年が、横手からゆっくりと近付いて来た。声はこの間の使いの少年である。


「どう致しましたか?」


 尋ねると、


「安五郎親分達の居場所が判った」


 と切り出した。


「親分さんは兇状持ちだからさこの間までは上州を転々としていたんだ。

 だけど水戸の天狗達のせいで目立つの何の。勝手に付いて来る上に、一人いびきの凄い奴が居てさ。

 それで『もう付きまとっちょ。これ以上面倒掛けるじゃあ叩き切る』って叩き出したのが先日。

 今は川越に身を躱したってさ」


「川越って次の宿じゃねえか。

 登茂恵っち。存外、用事は早く済みそうだな」


 トシ殿の言う通り予定は早まった。


 その川越までは僅か五里。今日の昼前には着くだろう。



「事の仔細を教えて頂けませんか?」


 尋ねると、駄賃を寄越せと言うのだろう。少年は手をそっと出した。


「相場と言う物が判りません。如何程で?」


 財布を紐解いて一分銀を見せると、


上野こうずけまで行く積りが川越で済みそうって言っても。他人ひとに財布の中身見せていいんですかい?

 第一そんな大金、おいらが困る。分不相応の銭抱えてちゃ盗人ぬすっとと間違われるんだぜ」


 それも道理であるかと財布を仕舞いながら、


「では、その手は?」


 と促すと、


「旅籠泊りなら、弁当作って貰ってるだろう?

 川越までなら昼には着くから、弁当無くても困らないし。

 食い物なら、持ってても咎め立てされることは無いよ。だからおいら、そっちの方がいいや」


 そう言って、越後獅子の少年は弁当を所望した。

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