胸裏百万

●胸裏百万


仮令たとえ押し込めにうても、仮令お幸。そなたを討たねば為らぬとしてもな」


 ご世子せいし様は、流石に江長者こうのちょうじゃ家をがれるお方だけあって、胆が据わって居られる。

 貴人の鷹揚さの中にも、心に獣を飼っておられるようだ。


「古くは源氏。近くは真田。親兄弟が敵味方に分かれ相討つためし数多し。

 偃武えんぶの世が終わりを告げんとするならば、いくさをするのが武士の運命さだめ。是非もございませぬ。

 万がいつ御親兵ごしんぺい江家こうけ征伐のご下命あらば。

 大島・安芸・岩見・小倉。何れのさかいからでも江家の芝を踏まねばなりませぬ」


 それは有り得るかも知れぬ未来。どうなるか判らぬお家を懸けた大博打に、旗幟を明らかにして行動しなければならぬのが武士と言うものだ。


「四つの境か。確かに江家を討つならばそこから参ろう。我らは天下相手に、少ない兵を四境しきょうに分かたねばなるまい」

「小倉からは小笠原、安芸方面からは恐らく彦根の赤備え、岩見からは浜田の越智おちが参りましょう。

 いずれも決して侮れる相手ではございませぬぞ。

 大島にはご公儀の軍船が押し寄せることは必定で、護れぬならば一時放棄も思案せねばなりませぬ」

「想像するだに辛い戦となろうな」

 ご世子様は益々暗いお顔となって行く。


「こほん。もしご公儀が江家の姫を信じられず、召し放ちにする時は如何に」

 少しでも明るい未来を考えたいのか、ご世子様はわしに尋ねる。

「その時は江家の為、天下の兵を迎え撃ちましょう。江家には民の中に戦国以来の譜代が潜み、幸が胸には百万の兵がございます」

 自信を以てわしは断言。


「何故そう言い切れる」

仮令たとえ鉄砲をりて戦えずとも、商売往来の手形を与うれば良いのです。

 例えば山で樹を切るきこりたれど、例えば海で艪を漕ぐ漁師たれど。必ずや江家の耳目と成りてつぶさに敵情を届けてくれましょう。

 戦国の世の遠い昔、彼らは江家の家臣にございますれば。当主がそれをお認めになり、命じれば良いのです」

 実はこれは前世に於いて、四境戦争で功を奏した作戦だったりする。


「おさち。そなたとは戦いたくないものだのう」

 ご世子様は、ますます悩みを顔に顕した。当策を提示するわしに、それを打ち破る手立てが備わっているのは当然だからである。

 されど役者は悪くない。

「今の策。お幸ならばどう防ぐ」

 貴人の鷹揚さか、それとも兄妹の気安さか。ずばりそれを聞いて来るご世子様。


「簡単にございます」

 わしは言い切る。

「領民みな譜代にして、上下しょうか心をいつにする『百万一心』が強みならば。

 武士と領民を分断すればよろしゅうございます。

 さすれば敵は武士のみと成り、領民は味方に出来ましょう。

 その隙は沢山ございます。この江家にも、下々軽輩を侮る者やさげすみを受ける身分の者がございますれば」


 因みにこれは。前世に於いて帝国陸軍の創設者・大村益次郎おおむらますじろう先生が、会津を始めとする敵に対して用いた戦略である。

 その効き目は猛威を揮った。

 会津降伏後に起こった会津世直し一揆の為に、会津松平家が会津に留まれなくなった程に。



 しーんと静まり返る供応の間。

 ご世子様は考えを巡らし、彫像のように動かない。


 やがて口を開いたご世子様が、低い声で、

「潰さねば為らぬな。その綻びを」

 と漏らした。

 綻びを繕うではなく、敢えて潰すと言った所にご世子様の強い意志が伺われた為、わしは声を潜めて忠告する。

「難しゅうございまするぞ。

 阻む者は、下を蔑まねば立ち行かぬ者達にございますれば」


 皆が黙り込む事暫し。

「幸や。それはそうとして、話があります」

 奥方様が行き詰まった話題を変えた。

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