芸予を越えて2
●芸予を越えて2
周囲の耳目を集め、石炭酸を全身噴霧した後、防毒マスクを外す衛生兵。
「報告! 病は
麻疹は人を殺す病であり感染力も強い。しかし
「部隊を再編します。麻疹の経験ある者は挙手!」
三分の一程が手を挙げた。ならばここで逃げ出す必要はない。
われらに害がないとあれば、助けられるならば助けたい。人道云々もあるが、それがわしの望む未来を拓く鍵なのだから。
現在わしの
その為に、最上の効果を得るために。考えよ。今この状況を劇的に変化させる手はないものか? 医療の専門家でなくとも、わしは人が病で死なぬ世界を生きた身だ。手懸りの一つくらいありはせぬか?
前世昭和の高度経済成長以降は、麻疹もあまり怖くない病気となった。しかし昭和も三十年代までは、麻疹も当たり前に死ぬ病気であったのだ。殊に食糧事情の悪かった終戦直後は、本当にコロコロと乳幼や幼児が死んだものである。
思い出せ。その後とその前と、何が変わった?
例えば。段々死亡率は低下してはいたものの、昭和三十七年までは当歳で死んだ子供など珍しいものではなかった。しかし翌年から激減している。主たる原因は昭和三十八年から実施された乳児医療費の無料化だ。
これはそれまで、気軽に医者に掛かれるか掛かれないかが明暗を分けていたケースが多かった事を示唆している。
昭和三十年八月発売の雑誌の裏には、井戸から電動ポンプで給水する自家水道システムのと並んで『丈夫に
保健婦さんから勧められたと、病気が治ったものの食欲のないお母さんに滋養のある薬用酒を勧め、その結果不眠も治り食も進み、洗濯物など家事が出来るまで回復する。その余りの効き目に家人も
その漫画の中で
「今年ほど村に病人が無い年はありませんねえ」
「ほんとうに。めずらしい年だよ……」
と言う会話がある。過ぎ去った後から当時を顧みれば、その広告が載った昭和三十年の八月当時には、程度が悪くなくとも村落に病人がいるのが当たり前だったと言う事だ。広告とは言えそれが劇的に改善したのは?
「そうか。滋養だ!」
普段から栄養のある物を食べれるようになったから、病気に負けない抵抗力を獲得したのである。
「滋養を付けねば為りませぬ。果物の
後世の様に果物に甘味は無い。シロップも砂糖ではなく発芽麦汁を元にした水飴が主体だ。因みに蜜柑は、塩酸と苛性塩で薄皮を処理したもので果実の可食部分だけになっている。
わしを初め、麻疹の罹患経験がある者達だけで村に赴く。薬と言ってもわしらに使えそうなものは解熱剤と経口補水液くらいしかないが、これだけでもかなり違うはずだ。発熱の熱が齎す後遺症や、脱水症状が原因の生命の危機を回避する事だけは出来る。
「私も参りましょう」
さて。五日ほど旅程に狂いが出たが、良庵殿のお働きもあって、村に蔓延していた麻疹はその峠を超えた。
良庵殿によると、最も効力を発揮したのは山桃や蜜柑の蜜漬けらしい。勿論、解熱剤や経口補水液の効果は
その後もわれら御親兵は予州での戦いを想定し、街道沿いの地図を作りながら海に至った。
島が飛び石の如く見える狭間の海は、神武東征の道として有名な
国産の汽船は未だ実験船の域を出ないため、渡海は潮と風頼み。潮の満ち引きによる六尺六寸(二メートル)を超える水位の差が生み出す潮流は、勝手知ったる水軍で無ければ如何ともし
「潮の流れは確か……」
前世の戦友に聞いた話だと八ノット強。素人考えでも
因みに今回は用意して貰った船に乗り込み、
予州ご政庁からの連絡では、津和地の御茶屋を用意する故、島に十分に金を落とすべし。とのこと。
「ここより
四十戸程の集落じゃけん、急に行っても困るけんどね」
津和地島に着いた時、船頭が話してくれた。
東南に開けた湾は天然の港を形成し、岸は半月の様に丸く見える。山の頂まで耕し上げた段々畑が美しい。
「風待って、海渡ったら芸州・
船頭が告げる風待ち潮待ちの間、
五日後、船は大阪の港に入る。ここより川船に乗り換えて伏見に至った。
今回は大所帯である、当然、以前宿に泊まる訳には行かない。だからいざと為れば野営も視野に入れていたのだが……。
「奈津様! 至急お越し下さい!」
港には、下野の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます