退助殿の馳走1

●退助殿の馳走1


「わしは天罰喰ろうて耳が遠うなっちゅーき、用があったら遠慮無しに大声で言うて欲しい」

 世話をしてくれることになった退助たいすけ殿はいの一番にそう言った。


 さて。退助殿の案内で鴨井を潜ると、吉田東洋殿の屋敷は呆れる程に調度が少ない。

 もう何年も土州の参政を続けているのだから、もう少し掛け軸などもあって良いのだと思うのだが、目立つ物と言えば書物ばかり。


「蛮書(洋書)まで……」

 ざっと見ただけで、オランダ語とフランス語の本がある。

登茂恵ともえ殿は蛮書が読めるのやか?」

 退助殿が目をみはった。


「読めませぬが、独特の文字や綴りで見当は付きます。流石に本の上下がどちらくらいかは判りますよ」


 わしは正規の将校教育は受けて居らぬから、叩きこまれたのは数学など実務に関する物のみで、語学を欠く。精々が戦前の中学講義録と戦後のカムカム英語で学んだ程度だから、読めると言っても知れたもの。

 この時代だと大した辞書も無いから専門書などは難しいだろう。


「暑うてお疲れやろう。今、白湯を出すき、一寸ちっくとお待ちを」

 夏の暑い時期故、普通は水が出て来るものだが。わしは余所者だ。土地の水は合わぬかも知れない。

 生水を飲んで腹を壊す事があってはならないと、気配りしたのだろう。


「お心遣い痛み入ります」

 湯飲みに入った熱々の湯に添えて、塩の枯れた梅干しが一つ。

 同じ物が、少し遅れて宣振まさのぶにも供された。


「岡田殿」

 と、退助殿は気を遣う。

「あ、はい」

「船酔いには梅干しが一番や。

 暑い盛りやき汗も掻いちゅーやろう。湯もお代わりがあるぞ」


 土州では、武士と言っても上士と郷士の身分差は大きく、人の付き合いも決して交わることは無い。良くも悪くも住む世界が違うのである。

 郷士と言うだけで宣振を軽んずること無く、退助殿は東洋殿の言い付けをきちんと守っている。

 しかし、それだけに宣振は居心地悪そうに見える。恐縮するその様を表現するなら、借りて来た猫と言うのが的を射ていることだろう。


「宣振。いくら退助殿が目上の御方と申しても、遠慮のし過ぎはお持て成しに対して礼を欠きまするぞ」

 わしの一言に退助殿は、

「いやこれはわしが悪かった。上の者が配慮せざったら寛ぐことなど出来んと、このわしが気付くべきやった」

 と頭を下げる。


 なるほど。東洋殿がわしらの持て成しを任せるだけあって、これはなかなかの人物だ。

 さらに素性を聞いて驚いた。


「なんと。書生ではなく、家督相続されて免奉行めんぶぎょうであられましたか?」

 免奉行とは年貢の税率を定めたり、農業インフラを整備する重い御役目である。

「大樹公様のご使者殿のお世話や。決して役不足じゃないろう」

 既にかなりな権限を任されている役人の筈なのに、彼は実に腰が軽い。だからこそ、尚更居心地が悪くなる宣振なのだが、これは仕方あるまい。


 だが、らちが明かぬと退助殿が、酒を持って来た辺りから潮目が変わった。


 アタリメを肴に三合ほど酒が入り、幾分打ち解けて来た辺りで退助殿が、

「郷士の身で、出世の糸口を掴むなど、並の精進では無理や。いったいどんなお手柄を立てたんや」

 酒を勧めながら聞くと、酒と言う潤滑液を注がれた宣振の口が、敷居に蝋を塗ったが如く滑らかになる。


 わしに見染められて郎党となり、城下に大砲を打ちかけて来る黒船と大砲の撃ち合いで打ち勝った自慢話を遣り始めた。

「ほうほう。それで……」

 退助殿は聞き上手。いい気になって喋る宣振を掌に載せて、気分良く情報を引き出して行く。

 傍で見ているわしと言えば、別段話しても差し支えない事だから放置していた。


 ただな。

「わしの主は日本一の大将や。お側に侍る事が出来るわしは、日本一の果報者や」

 などとわしを自慢し始めるのは止めて欲しい。

 ちらちらと退助殿のわしを見る目が突然、縁日で香具師の口上を楽しむ子供の瞳に成ったかと思った先は急転直下。そこから先は他人事では無くなった。


 そう。退助殿の絶妙の誘導も有ってあっと言う間。まるで一気に屋根の瓦が崩れ落ちるかのようであった。

 無宿者の群れを力で従えた事や薬丸示現流の使い手と遣り合った事。お伊能いの殿奪還の事やパラシュート降下の事。ものの四半刻しはんとき(三十分)も経たない内にわしの武勇伝が垂れ流しの憂き目に遭う。

「宣振……これ宣振」

 制するわしの声も届かず。目配せなどまるで気付かぬように、もうペラペラと喋りまくってくれたのだ。


 全て暴いてくれた宣振は、酒も回ってご機嫌な顔。

 聞き取る退助殿は、太平記やいくさの手柄話に拳を握る少年の目。

 対蹠的たいせきてきにわしの顔が能面の様になっていることを、今自覚した。

 そう。たった今退助殿に、

登茂恵ともえ殿。今は酒しかお出しする物が無い。近々わしがお持て成しをするき。身体を開けておいとーせ」

 と、勝手に予定を入れられてしまった事もあって。



 そんなこんなで時間が過ぎ、一旦東洋殿が戻られた。

 そして開口一番。

「登茂恵殿。ご使者殿。明日の夕刻。高知のお城より迎えが参ります」


 随分と忙しい日程である。


 無理もない。さらにお忙しい身の東洋殿は、畳を温める暇も無くとんぼ返りで再びお城へと戻って行くのだから。

「退助。頼んだぞ」

 と、わしらの事を彼に託して。

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