邯鄲の文1

邯鄲かんたんの文1


 ルルル、ルルル、ルルルルル。

 庭の暗闇の中で、虫が鳴いている。


 ルルル、ルルル、ルルルルル。

 夢見るように鳴いている。



 夜も更けた彦根藩邸の奥。燈火ともしび近く文を読む男。

 大樹公家執権の部屋には似つかわしくなく、燭台の火は菜種は無い。荏胡麻でも無い。まして木蝋や蜜蝋でも無い。

 庶民が使う安物の、古く生臭い魚油がちりちりと煙っている。


「あやつめ」


 もう何度目であろうか? 彦根中将ひこねちゅうじょうは丹念に読み返していた。


――――

 僕は羽林うりんきみを知る。

 君は大樹たいじゅに生まれし僕にして、僕は大枝おおえに生まれし君なりや。


 やよ君は為すべきを成せ。僕は死ぬるもうらみなし。


(意味)

 僕は近衛中将、君の事を知っている

 君は大樹公家に仕えた僕であり、僕は江家こうけに仕えた君であった。


 さあ君は為すべき事を成せ。僕は死んでも怨みはしない。

――――


 登茂恵ともえが携えて来た義卿ぎけいの言葉に、中将の深く縦皺が刻まれる。

 何度読み直しても、恐れていた通りの答えだ。


 確かに法に照らせば義卿の罪は死罪相当。しかし彼のように大望を抱く身であるのならば、何としても生き延びて他日を期す為、恥辱に塗れる事も辞さないものだ。

 実際、中将がころした者の多くは往生際が悪く、かつての政敵に至っては泣き喚きすらした。

 それなのに、既に義卿は死ぬ気でいる。自ら死を求めている節すらある。

 聞かれもしない老中邀撃ようげきを語ってまでも。


――――

 我が主家は、皇祖すめりらみおや仲御子なかみこにして天孫が叔父わかちち御裔みすえ。即ち物実ものざねの神・天穂日命あめのほひのみことを祖とす。

 爾来じらいお家はとことはに、菊の絶えせぬ庭に在り。

 ほまれの庭に生い立ちし、僕も菊を奉ずなり。


 君が祖は吉野の御民みたみなれば高氏たかうじが世に逼塞す。

 副将軍家に苦しみを受け、遂に父祖の地を失いたり。

 瓦解がかい在りてくびきを抜け、神君に召されて後は先手を任されしお家にて、あおいを咲かせしご血筋なり。


 君は隠居が庶子にして微禄は三百みはく半世はんせ埋木うもれぎやどに棲む。

 

 埋もれど折れぬ雪柳ゆきやなぎ、埋もれど朽ちぬ鐡之錐てつのきり

 雪中に在りて儀刑ぎけいを修め、嚢中に入りて易行いぎょうすすむ。


 嗚呼ああ大丈夫だいじょうぶ大丈夫だいじょうぶ。国を背負いて異人と対す。


(意味)

 僕の主家は、天照大神の次男で、降臨された瓊瓊杵尊ににぎのみことの叔父の末裔である。

 つまり天穂日命を祖先とするのだ。

 以来、お家は常に尊皇の志を持って来た。そこで生まれ成長した僕も、皇室を奉じている。


 君の祖先は南朝方だったので、足利幕府の時代には逼塞する。

 今川家に苦しみを受け、とうとう先祖伝来の所領を失ってしまった。

 今川家が没落したのでその軛を抜け、初代大樹公に召し抱えられた後は先手を任された家で、大樹公家を盛り立てて来たご血筋だ。


 君は父が隠居した後に生まれた庶子で、禄はたったの三百俵。人が働ける時間の半分を埋木舎うもれぎのやで逼塞していた。

 

 (君は)雪に埋もれても折れない柳で、埋もれても朽ちない(鋭い)鉄の錐だ。

 逼塞の中で規範を身に付け、召されて後は万事容易い事かのように仕えている。


 ああ。立派な男だ。素晴らしい男だ。この国を背負って堂々と外国人と遣り合っている。

――――


「わしの雅号や幼名まで織り込んで持ち上げてはいるが……」


 賛辞は寄越せども決しておもねっている訳ではない。

 義卿はあくまでも、天下の宰相たる彦根中将と五分の立場を貫いており、伝馬町の牢屋敷の中にあってなお、義卿は激しく中将を攻め立てていた。

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