昔の例

●昔のためし


 彦根中将様を狙った弾は腰から入って太股に抜けた。この一発で、中将様は身体が動かせなくなってしまったそうだ。

 大樹公たいじゅこう様が遣わした御典医ごてんい殿の見立てによると、幸い内臓に損傷はないから命こそ取り止めてはいるが、予断は許されぬ重傷とのこと。

 確かにこの当時これほどの傷を負った者は、後から傷が膿んで無くなる場合が多かった。

 但し。不幸中の幸いは雪の日の為、傷が膿み難い状況であったのと、受けた傷がこれ一つだけだったことである。



「思ったよりお顔の色が宜しいようで、祝着至極しゅうちゃくしごくに存じ上げます」

 中将様は、わしからの見舞いの言葉に首を振り、

「口惜しいが。傷が治っても立てぬ。もう上様に御奉公出来ぬ身と成り果ててしまった」

 と弱音を吐いた。

 馬に乗れぬ身体と為った為、最早中将様は一朝事いっちょうこと有る時、精鋭の赤備えの真っ先駆けて敵に当たることは適わなくなったのだと。

 中将様は、言わずと知れた天下の宰相。国家の危機に対し独裁権を握って国難に当たる執政官であると共に、家職は大樹公様の切込み隊長。天下に名高き精兵せいびょうを率いて戦う前線指揮官でもある。

 武家政権とは詰まるところ軍事政権である。いやそうでなくとも、結局は権力を担保するのは武力なのだ。



 事件は時代を揺るがした。


 大樹公家のご威信にきずが付き、天下に陰りが生じた事。

――――

 ひとつ、入り鉄砲に出女と、厳しく規制されていた銃が襲撃に使われた事。

 一、ご府中開府以来、一度も無かった要人暗殺計画が実行されてしまった事。

――――


 従来の要人警護の在り方に疑問が生じた事。

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 一、賊から襲撃の予告が成されていたにも関わらず、仕来しきたりを墨守ぼくしゅ、警護の者を増やせなかったこと。

 一、太平の時代に慣れ、無駄遣いだといざと言う時役に立たぬ一日中間を雇い、本来闘う兵士の行軍であった行列を見てくればかりにしてしまって居た事。

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 小規模ながら、西洋式軍隊の有用性が実戦証明された事。

――――

 一、賊の鉄砲の利は、鉄砲と鉄砲を恐れぬ馬匹ばひつによって覆された事。

 一、女子供でも、隊を組み鉄砲と銃剣を使えば、腕の立つ武士を退け得る事。

――――


 そしてまだ僅かの者か理解していないであろうが、太平の世に武士の魂であり続けた刀剣の時代が過ぎ去ろうとして居るであろう事だ。

 戦乱の時代に於いて、刀剣は至近距離で戦う為の武器でしかない。戦国の昔の如く、大砲おおづつ・弓矢と鉄砲・槍そして刀と、距離によって使い分けられる武器の一つに戻って行くことだろう。



 事件はあちこちに大きな波紋を投げ掛けた。

「一番のき事は、中将様のご武運めでたくお命をながらえたことにございましょう。

 賊に討たれ、万がいつにでも首級みしるし奪われるようなことにでもなって居れば。

 大樹公家の天下はもといから揺り動かされていたに違いありません」

 わしの言葉に中将様は、。

「そうだな。法度はっとに照らせば彦根は、良くて減封げんぷう。拙ければお取り潰しの憂き目にうて、京のしずめから外されておったことであろうな」

 苦々しく口にされ、額に深く縦皺たてじわを創られた。


 さもあらん。それは唯、彦根中将家とその家臣だけの事に非ず。大樹公家の天下に取って、自らの脚を喰らうタコの如き悪手を取らねばならぬ流れであるからだ。


「彦根が京を押えねば誰が大樹を護るのか。会津は強いが遠過ぎる。京に変事あらば間に合わぬ」

 天下の宰相たる中将様は、自らのお家よりも、寧ろ大樹公家の事を気になされている。

 その心労が傷に障るのを恐れ、わしは重荷を外させようと言葉を掛けた。


「ご安心を。お取り潰しだけはは無いと存じます。


 百年以上前の話にございますが。五代目熊本藩主・細川越中守えちゅうのかみ様のためしがございます。

 お旗本の板倉勝該かつかねめに突然背後から斬りつけられ、まもなく絶命致しました。

 三十路を過ぎたばかりの若さ故、まだ世継ぎがおらずお家は断絶の危機に陥ったのでございます。


 窮地を救ったのは、居合わせた六代仙台藩主・伊達陸奥守むつのかみ様。

 『越中殿にはまだ息がある。早う屋敷に運び手当てされよ』と助言なさいました。

 家臣たちは越中様のご遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、越中様のご舎弟しゃてい末期まつご養子に指名して届け出た後、介抱の甲斐無くご逝去されたことにして事無きを得たそうにございまする。


 法度は法度。されどとが無き人違いの横死おうしなれば。お上もお目溢めこぼし為されたよし

 とは言え。ここで横死は士道不覚後しどうふかくごなりと杓子定規な真似を致さば、死兵と成りし五十四万石との大戦おおいくさでございましたでしょう。


 従って恐らくは。中将様が討たれていたとしてもさきためしの如く為ったと思いまする」


 わしは、そこは安心するよう中将様に説明した。

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