閑話

膝栗毛

膝栗毛ひざくりげ


 東海道は松並木。五十三次を、京より夜旅を掛けての強行軍。

 途中で川止めにも遭わぬ順調な旅であった。


 春輔しゅんすけ殿に背負われて峠の難所を越え行けば、峠の茶屋が見えて来る。



「姫様。あれに見えるが丸子まるこであります」


 春風殿がにこにこしながら指す方は、飲んで騒ぐ店などなさそうなこじんまりとした宿場町だ。


「梅わかな、丸子の宿のとろろ汁。の丸子宿でございますか?」


 春輔殿の肩を押して覗き込むと、右手に見える川筋に石の橋が架かっている、その石橋の道の行き止まりに、歌川広重の浮世絵そっくりの佇まい。茅葺屋根の茶屋がある。


「よくご存じで。あれこそが彼の丁子屋ちょうじやにございます。

 豊太閤ほうたいこうの世から続く老舗の茶屋で、自然薯を擂ったとろろは天下一。

 宇津ノ谷うつのや峠を下って食べるは逆順なれど。綿のように疲れた身も心も、食せば忽ちしゃんと致しますぞ」


 そう口にするだけで、狂介きょうすけ殿の腹の虫がぐぅと鳴った。


「姫さん。店が夫婦喧嘩して居んと宜しいのぉ。


 喧嘩する、夫婦は口をとがらして。とんびとろろに滑りこそすれ」


「まあそれは膝栗毛ひざくりげですか?」


 茶化す宣振まさのぶにわしも笑う。

 後の時代は芭蕉の句の方が有名だが、この頃は弥二さん喜多さんが夫婦喧嘩のせいでとろろ汁を喰い損ねた話の方が有名のようだ。



 名物とろろ汁の立て看板の読めるまで近づくと、右手の木の傍にどこかで見たような唐丸籠。

 中には誰も乗って居ない。


「先生!」


 真っ先に春風はるかぜ殿が飛び出した。春輔殿もわしを降ろすやそれに続く。


 茶屋は当に広重の絵のまま、畳敷きの一番奥で春風殿達の師匠・義卿ぎけい先生がお椀を手にとろろ汁を食していた。護送の役人が入り口側に座っているけれど、手鎖も無い。

 まるでのんきな旅のように、義卿先生も役人も共にとろろを掻き込んでいた。



「一瞥以来でございますね。お元気そうで何よりでした」


 わしが義卿先生に話し掛けると、


「一服宜しいでございますか?」


 春輔殿が煙管を取り出し役人の前に差し出し、微塵も険悪でない有様に狂介殿はほっと安堵の溜息を漏らす。


「先生。宜しければ半刻はんとき程、外しますが」


「良いのですか?」


 わしは危ぶむが、


「義卿先生が逃げる事など、仮令たとえ天が落ちて来ることがあってもあり得ませんな」


 と信頼し切っている護送役人。

 寧ろ義卿先生のほうが、


「成りませぬ。昼餉を取った食休みには、講孟箚記を講ずと決めてあったではありませんか」


 と窘める始末。



「いやいや。お弟子との時間の方が貴重でしょう」


 そう護送の役人たちは口にするが、


「弟子との時間と仰るのなら。君も僕の弟子の一人です」


 きっぱりと義卿先生は言い切った。


「彼らには一年余り教える機会がありました。一方、君にはご府中に着くまでの時間しかないのであります。

 私が去った後、彼らは自ら学ぶ力がありますが、君にはそれが足りて居ません。


 一日一字を記さば、一年にして三百六十字を得るのであります。

 されど三十一みそひと文字の歌にも足りぬこの月日。せめて発句たりともと、学びを進めて来たではありませんか。


 ご府中までは後十九宿。常の旅なら三日の距離で女子供のお伊勢参りでも七日足らず。

 残り少ない貴重な日々を、ゆめ疎かにして良いものではないのであります」


「ははは。相変らずでありますな。先生は……」


 春風殿は苦笑い。


「月日を無駄にせぬ為ならば、私も学びに加わりましょう。お役人様が許して下さるのならば」


 わしが申し出ると


「そうですな」


 と役人二人は頷いた。


東一とういち君。小輔こすけ君。俊輔しゅんすけ君。

 君達も始めましょう」



 こうしてご府中までの三日。わしらは義卿先生の護送と旅を共にした。

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