東洋先生1

●東洋先生1


 室戸の沖は波荒い。逆巻く波を幾つも越えて通り過ぎる。

 脚は早いが小さな船だ。風と波の影響を真面に受けて、辿り着いたは高知の浦戸。


 土州政庁はこの高知に在る。

 河川の間に在った為、元は河の内と書いて河内こうちと読む土地であったが、初代土州侯としゅうこうが読みをそのままに字を「高知」と改めた。


 高知の二字は二つの意味を持つ。

 一つは立派に治めると言う意味であり、一つは高き知行、即ち高祿こうろくを示す言葉である。

 詰まりこの名は、水の害を取り除いて立派に治めて遣ろう。豊かな土地にして遣ろう。そう言う初代土州侯の抱負を支配地にひろめる言葉でもあったのだ。



「大丈夫ですか?」

 船を降りるに当たり、わしは宣振まさのぶに声を掛けた。

「ひ、姫さんは平気か? うっ……」

 海に盛大に撒き餌を施す。

「吐けるだけ吐いて仕舞いなさい。楽になりますよ」


 原因は船酔いだ。行き成りあれだけの波に揉まれれば、大抵の者は普通こうなる。

 風と潮とが合致した時でさえ、ジェットコースターに乗ったかのような振り回されよう。

 いや。垂直ループが無いだけで、あれはジェットコースターその物であった。熟練の水手かこでも無ければ合羽かっぱ(甲板)の上に真面に立っていることさえ出来なかったであろう。

 結果、わしの郎党にして副官兼護衛の筈の宣振が、しゅうにして上官でもあるわしの肩を借りて、漸く上陸を果たす為体ていたらく


「宣振は、酒の酔いには強くとも、船の酔いにはからっきしでございますね」

「姫さんの肩を借りるなど、まっこと面目ない。こげな、こげなうるさい(苦しい)酔いは初めてじゃ。

 ようよのかいで船降りたけんど、まだ周りが揺りゆう」

 ふら付く宣振の視界は、ぐらぐらと地震のように揺れ続けているようだ。


「そこの土手の草で休みましょう」

 浜から上がり草の上に横たえると、宣振の顔は真っ青であった。


「お嬢さん、お連れは大丈夫やか? ほら荷物持って来たぜよ」

 親切な船の者が、風呂敷包みを二つ引っ提げて脇に置いた。


 からりと晴れた大空の下。水平線のこちらから水平線の向うまで、一幅の絵のような海が広がる。

 土州の海は、父の領地とはまた違う。そこに在るだけで心の小ささを笑ってくれるような大きな海だ。


 宣振を土手に休ませて、こうして波の音を聞いていると。ついついわしも眠気を催す。

 幸い今は、旅装束の小倉の袴。まよよと大の字に寝そべると、身体に染み付いた旅の疲れが草に抜けて行くようだ。



 暫くぼーっと雲の流れを眺めていると、

「誰かと思ったら、七軒町しちけんまちの岡田のせがれか」

 声に目を遣ると。お供の侍を連れた身分の高そうな壮年の男。

「如何にもわしじゃが……。と、東洋先生!」

 宣振は、未だ船酔いの収まらぬ身体だった。しかしさぼりを上官殿に見つかった新兵の如く発条仕掛けに起き上がったものの。案の定、直ぐによろけてばたりと草に突っ伏した。


 但し宣振は要領が良い。それを幸いに土下座に移り、

「先生ばあのお人が、わしのような者を覚えちょいて下さったか」

 こんな平蜘蛛のような様は大樹公たいじゅこう様を前にしても見せはしなかったのに。文字通り頭の上がらぬ相手のようである。


「出立の挨拶以来だな。廻国修行はどうであった。

 門閥の力が強過ぎて、まだ郷士風情にさほどの出世は見込めぬが。癸丑きちゅう(黒船来航の年)以来、世が動いておる故、最後に物を言うのは器量だ。

 父御ててご殿は大層銭を掛けて、お前に砲術や兵法を学ばせたと聞く。

 貧しい中からお前の為に、身分の壁を踏み越える銭の階段を敷いてくれたのだ。精進せい」


 なるほど。この東洋先生と言う人物は、物言いこそ尊大だが嫌な奴ではない。


「ん? そこのわっぱ。初めて見るな」

 ここに来て、やっと気づいたかのように、宣振の隣にいるわしに声を掛けた。

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