出発の朝

●出発の朝


 旅支度を整え屋敷で待つ。

 藩庁からの報せでは、春風はるかぜ殿が参ると言った時刻。屋敷を訪ねて来たのは、あのあばた面の小男では無かった。

 遣って来たのは筋肉質で小太りの、若い相撲取りかと思うような男だ。


「春風殿は来ないのですか?」


 聞くと面前で平伏し、


「真に申し訳ございません」


 と謝った。


「仔細を聞かせて頂けますか?」


 わしが促すと、男は平伏した顔を少し上げて、


「わしは先生の推薦で京への随行が許され、来原様に従って長崎遊学にも預かりました。

 この度、藩に戻って参ったのですが。

 東一殿は、わしの帰藩祝いじゃと申されて、昨晩遊郭で乱行らんぎょうに及びましてございます」


 と吐き出した。



「いったい何を遣ったのです?」


 わしが訊ねると、


「はっ、わざわざ何人ものお茶挽を呼び集めて。わしに『良いから食え』と絡み酒のように大鯛の目肉のつくねを始め、高値こうじきな食い物を注文なされまして。

 酔いが進み、仕舞いには自ら襁褓むつきをして、そこに酒を注ぎこむ始末」


 前世のバブル景気の時代に存在したと言う乱行の一つ「おむつビール」それを百年以上前に遣らかすとは、ぶっ飛んだ奴だ。

 わしは呆れただけで済んだが。


「なんですと!」


 あちゃが吼えた。


「高値なれど、目肉のつくねなれば他は誰かのご馳走となります。されど、襁褓に酒とは天に背く非道です。

 殿に申し上げて、切腹のお沙汰を。いや、切腹では生温うございます。打首獄門でも足りませぬ」


 ふうふう言いながら顔を真っ赤にしている。


「あちゃ。そんなに怒ると身体に悪いですよ」


「すみません。取り乱してしましました」


 あちゃはやっとわしに気が付いて、口を噤んだ。


 些か過剰に反応しているようだが、この時代。酒は米穀の余剰で作るものだから、前世の晩年よりも遥かに高価な飲み物になる。

 かもさねば人のかつえを癒す物なれば、無駄にするような振舞いは許せぬのだろう。



「かくして一夜にして藩から受け取った路銀をばら撒いてなお、支払いが足りず。

 只今、桶伏せに遭っております」


「桶伏せ?」


 あちゃが首を傾げると、


「はい。大きな桶を伏せてその中に、閉じ込められてございます」


 相撲取りみたいな男は、再び額を土に着けた。



「それで。いくら足りないのです?」


「方々手を尽くして借り受けましたが、後三両ほど」


 わしは矢立で懐紙に借用書を認めて、奥判を書き入れた。


権兵衛ごんのひょうえ。私の化粧料けわいりょうを担保に、藩庁から借り受けます。

 旅の費用として十両。用立てて貰いなさい」

「畏まりました」


 権兵衛を使いに出し、相撲取りのような男を顧みる。男はおずおずと、


「宜しいので?」


 と口にした。


「流石に遊郭の払いでは、私の公費を回せないでしょう。

 それに嘘は言って居ません。春風殿が参らねば、私は旅に出れませんから」


 そう言う意味では間違いなく、旅の費用の一部ではある。


「所で。そなたの名前は?」


「軽輩ゆえ、ご容赦を」


「構いません。伺います」


「わしは春夏の春に輔弼ほひつの輔と書いて、春輔しゅんすけと申します」


「春輔。良い名前です。覚えて置きましょう。しかし、春風殿には困ったものですね」


「あ……はい。こう言っては何ですが。以前から、公金と自分の金の区別が付かない男でして」


 春風殿には、彼も相当苦労しているのだろう。

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