喉元の匕首

●喉元の匕首あいくち


 先程からオールコック殿は、やたらと大陸の国と言う言葉を使う。

 この時期、清国は二度の阿片アヘン戦争で青息吐息。従来の海禁政策も有って、八島にちょっかいを出す所では無い筈だ。

 と、なると残るは唯一つ。


「オロシャの事でございますね」

 消去法でそれしかない。

「良くお解りで」

 生徒の答案に満足した訓導くんどうの如き、オールコック殿の反応。



「クリミヤ戦争で西への拡張を防がれたオロシャの目は今、東方へと注がれています。

 オロシャは二年前に清国と結んだ条約を無視し続ける清国に腹を立て、此度こたびのエゲレスと清国の戦いに便乗して来ました。仲裁国の体裁を取り、利権を掠めようとしているのです。

 その証拠に、わが国が掴んだ清国から奪って建設する予定の町の名前が露骨なのです」

「なんと言うのです?」

「ヴラジ・ヴォストーク。オロシャの言葉で、ヴォストークとは東方を意味しヴラジはヴラヂェーチ、即ち支配せよと言う動詞から来ております。

 ヴラジ・ヴォストークとは、東方征服の野心を露わにした名前なのです。


 これが只のこじ付けでない証拠に、オロシャには八十年ほど前に建設されたヴラジ・カフカスと言う町が有ります。

 このヴラジ・カフカスは、オロシャがトルコから北カフカス(北コーカサス地方)の支配権を奪い取るために大きな働きをして参りました。恐らく後十年を待たず、北カフカスはオロシャの領土となることでしょう。

 これと同じ事を、オロシャは東方に対して企んでいるのです」


 じっとわしを見つめるオールコック殿の目。


「もしも八島が弱ければ、オロシャはたちまち攻めて来る。

 と言う訳にございますね」

「はい。清国から海洋への出口を奪い取っても、清国北方には凍らぬ港はございませぬ」


「凍らぬ港がある限り、オロシャはいつでも狙っている。

 オールコック殿はこうお読みになっていらっしゃるのですね」

「はい。間違いのない事にございます。その証拠に!」


 オールコック殿は声を荒げ立ち上がった。

「トモエだから教えます。

 オロシャは馬関瀬戸ばかんせとの西の出入口をやく彦島ひこしまを欲して、周辺の測量を始めています」

 昔の八島でも、両岸から火矢を射掛ければ容易く封鎖出来る馬関海峡。ここを手中にせんとオロシャが行動を開始している。こうオールコック殿は断言した。

 確かに彦島を押えれば、馬関瀬戸を支配することが出来るだろう。


 だがしかし。おや? とわしは考える。

 彦島と言えば、江家こうけ田の首たのくび山床やまとこ弟子待でしまつ台場うてなを置いた場所であり、前世の藤公余影とうこうよえいに曰く、エゲレスが租借を求めた島である。

 一方オロシャは陸軍国で、未だ東の玄関口を持っては居ない。だからこれはオロシャと言うよりは寧ろエゲレスが欲しているのではないか?


「地中海と大西洋の水路に、ジブラルタルと言う土地があると聞きます。海国かいこくエゲレスは、ハーキュリーの柱と呼ばれるこの要衝を自家の物とする為に、ジブラルタルをエゲレス領としてしまったと聞き及びます」

 わしの言葉に、優し気なオールコック殿の目は、ほんの一瞬だけだったが猛禽の如き光を映した。


「君は何者だ? 私にはまるでプリンス・ユージンのようにも見える」

 と口にした。印象からイギリスを苦しめた将軍の名かと思ったわしは、

「そこは、ジェームス・ウォルフになぞらえて頂きたく」

 と話を振った。


 わしは前世の即席将校教育で、ウォルフ将軍はイギリス陸軍の小隊戦術を完成させた男だと教わっている。


「もしも八島を狙う者が有れば、仮令たとえ正面から戦って一分の勝ち目が無くとも。

 登茂恵ともえは我が群狼ウルフパックを率いて、悩ませましょう。

 のナポレオンも、正面決戦を挑まぬ敵には勝てませんでしたから」

 勿論、群狼とはウォルフ将軍の名を踏まえたものであり、前世のドイツ軍が行なった潜水艦作戦の働きを再現してやろうと言う、このわしの抱負でもある。

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