己を知る者

●己を知る者


 懐かれてしまった。


 最初は殺気を隠そうとも居ない子立しりゅう殿だったが、今は母犬から引き剥がされたばかりの仔犬のように、手を差し伸べたわしに心を許す。



「手をお放し下さいませ。いかに私が子供とて、女の手をそう掴んで押し戴くではありません」


 男と言うものは、面子が大事であるから常に虚勢を張って生きている。

 無論、そんな必要の無い立場に成れば大らかに大丈夫然としておられるのだが、子供や若殿原わかとのばらでは同輩から侮りを受けぬように気張るのだ。


「のう。子立殿。……はぁ~」


 それがわしが女、しかも国主のむすめさちと教えた結果。外見そとみには大変気拙い格好になっている。

 原因はわしが与えた二言三言。下士官教育で受けた教えをそのまま用いただけだ。



「真に感服仕りました。

 なれど水戸家に仕える武士なれば、姫の御門に馬を繋ぐことは敵いません」


「落ち着きなさい。確かに私は国主のむすめにございますが、国主ではございませんよ」


「わしを産んだのは母のさきでございまするが、わしを知る者は唯、幸姫様お一人にございます」


「子立殿。落ち着いて」



 それは一言で言えば、彼が評価して貰いたがっているように評価してやること。そしてその物差しに当てはめて訓導すること。

 言うは容易いが、問題は彼がどのように評価されたがっているかを掴むことが難しい。

 わしが見た目の歳ならば、何を言っても畳の水練。彼を悦ばせることはあっても、わしの言葉がこれほど子立殿の心を揺さぶる事はなかったで在ろう。


 けれどもどっこい。これはわしの誤算なのだが、わしには前世で積んだ経験があった。

 弾の下を掻い潜りつるぎの山を切り伏せて、泥の上澄みを啜り草を噛んで積んだ幾年月。

 彼がどのように評価されたがっているか、かなりな確度で推し量ることが出来た。


 加えて彼の生い立ちが拙かった。

 幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる。

 物心付かぬ内に母と共に父の家から追い出された彼の傷は、渇きに塩水を飲むかの如き、果てしない承認欲と成って居たのである。


 つまり。一言で言うなら、薬が効き過ぎてしまった。



「判りました。ならばわしに名を下され。幸姫様に逢って、今日までのわしは死にました」


 尻尾があればぶんぶん振って居るに違いない。

 わしはしばらく考えて、


「今日、少しだけ言葉を交わしただけにございますが」


 と断って、彼に相応しき名を考える。


「あなたのもといと成るものは、人の押し並べて踏むべき徳の道、仁義礼智忠信孝悌の内、智でありましょう。

 されど兎角、智者はしんに薄くなりがちなものです。なればこれを戒めて身を保つことが肝要。

 故に信の一字を採ります。

 そして今わたしに捧げられし忠誠の二文字より、ご主君に捧げるべき忠の字を除き、残るせいの字より『まこと』のみを採りて、先のしんの訓みと致すのは如何でございましょう?」


「信心の信と書いてまことですか……」


「はい」


「真に姫様は、わしを知る者にございます」


 何故だ? まるで前世の孫が読んでいた小説の様だ。名付けた途端、わしに対する狂信度が急上昇してしまった。



「子立殿」


「今よりはまこととお呼び下され」


「ではまこと殿」


「はい」


「勤皇の志、篤ければ。もう賊の様な真似はお止め下さい。

 京は天子様のお膝元、宸襟しんきんを悩ませては意味がございません」


 信殿は、静かにわしに頭を下げた。



 視線を感じて振り返ると、おりんと案内してくれた守り子が、心配そうにこちらを見ていた。


「おりん。帰りますよ」


 わしは頭を下げる信殿にきびすを返し、帰途に就く。



 途中。河原の近くでわしは、おりんを背に回して呼ばわった。


「つけているのは判って居ます。姿を現しなさい」

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