閑話

沈黙の矢・魔死罠

●沈黙の矢・魔死罠モスミン


 出立に向けて、各方面の引継ぎや根回しが続く毎日。

 時は昔の活動写真のようにカクカクと、コマ飛ばしに進んで行く。


 そんな中。破軍神社の奥座敷に、自身も大層お忙しい身の良庵りょうあん先生が遣って来た。


「この時期。先生がお出でになると言う事は……」

 わしの最初の一言で、良庵先生は会心の笑みを浮かべられた。


「はい。この魔死罠モスミンなる薬は恐るべきものにございますな。

 伝書をそのまま信じると。我らが病と闘うに当たり、先の猿播さるは甲矢はやとすれば、此度の薬は乙矢おとやになると、皆が期待しております」

 直ぐにでも薬効を試してみたいのが、目の前に菓子を並べられた子供の如く丸解り。

 予め飲ませる薬では無いと言っておかねば、大事おおごとになったに違いない。


「凡そ人の住む土地には必ず流行ると言われているおこり(マラリア)は、夏場に猛威を振るう病でございます」

「そうですな。かんに流行るのは、薩摩よりも南の地域に限ります」

 わしの振りに頷く良庵先生。


ははの家に伝わる巨勢こせの伝承によると、神武東征の折、熊野にて大御軍おおみいくさを苦しめた毒気とは、当におこりのことであったそうにございます。

 建御雷神たけみかづちのかみが大元を断つ為に授けられしつるぎとは、当に良庵先生が作られた魔死罠なのでございます。

 これを身体に吹き付け、辺りの沼等に撒いた所、辺りの蠅・蚊・蚤・虱は立ちどころに消え失せて、新しく瘧に罹る丈夫ますらおともは居なくなったとの事。

 もしもご府中で使うならば、人や女の髪。衣服やうまやに用いて蚤虱の駆除。ドブに撒いて蚊の駆除を為す形で行うのが宜しいでしょう。

 この薬は、口から入れば毒にございますが、頭から真っ白になるまで粉を浴びても大丈夫にございます。

 但し。必要以上の散布はいたずらに益になる虫や鳥の餌になる虫まで殺してしまい、春に成っても鳥の鳴かぬ土地と成してしまったり。容易くこの薬が効かぬ強い病を生み出してしまうから避けよ。

 と、伝書にある戒めをお守り下さいませ」

「そうだな。わざわざ記してあると言う事は、余程乱用は危ういのだろう」

 頷く良庵先生。

「はい。この矢は病の元を射貫く代わりに、鳥も魚も棲まぬ山河を生み出す沈黙の矢となるであろう。

 と、強い言葉が使われております故」



 実際の所。猿播同様、乱用は耐性のある生き物を生み出してしまうし、生態系に与える影響が大きい。

 加えてこれ自体の人体に対する毒性も、決して低くは無い。

 しかし、こいつは手っ取り早く害虫媒介に因る伝染病を防げる優れものなのだ。


 石炭精いわきせいを塩化鉄を触媒として塩素ガスと反応させて作る甲薬。

 蒸留後改めて水を加えた酒精に塩素を反応させ、濃硫酸を加えて蒸留して生み出される乙薬。

 甲乙両者を酸性条件下で加熱して生み出されたこの白い粉薬こそ。終戦直後百万の日本人を救ったとされるあの薬である。

 前世のわしも、復員船の中で頭からこの粉を吹き付けられ、何度も何度も粉塗れにされたものだ。



「魔死罠は毒にございます。

 されど釈迦に説法を承知で言わせて頂ければ、毒はさじ加減で良薬となり、効き目の優れた良き薬は、匙を誤ると容易く人を殺めます。

 乱用だけは何卒なさらぬ様。登茂恵ともえは、今日まで製法を伝えて参ったははの家を代表して、お願い申し上げます」


「はい。これは危急の薬にて、決してみだりに使いますまい。

 それよりは、やはりこの二つの箇所に興味があります」

 そう言って、栞を挟んだ箇所を開いた。


――――

 辛卯しんぼう。初夏にして暑く、蚊の猖獗しょうけつ甚だし。

 長雨晴れて暑し。おこり、巨勢を襲う。

 夢告有り。したがいて沼に臭水くそうず(石油)を浮かせ、池に鯉、田に泥鰌どじょうを放つ。

 夏盛りにして蚊は治まりて、瘧共に鎮まる。

――――

――――

 乙卯いつぼう


(中略)


 五月。筑紫にておこりの疫神、御軍みいくさに祟る。

 大将軍、矢を受く。傷病みて甚だわろし。

 高麗こま方士ほうし、秘薬を献じ大将軍を救う。

 大将軍身体を震わせ謝礼す。よってこれを猿播さるはと言う。


 六月。方士、建御雷神の秘薬魔死罠モスミンを創り沼沢しょうたく田地に撒く。忽ち瘧鎮まる。


 七月。御軍渡海せぬまま筑紫を離る。

――――


まことならば、或いは瘧は蚊が原因やも知れませぬ。

 毒でもある魔死罠の使用を控えるため。先ずは臭水で沼やドブのボウフラを殺し、鯉や泥鰌でボウフラを食いつくす。この方法の追試も早急に行いたいものです」

 良庵殿は慎重に口にした。

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