土州の天狗

土州としゅうの天狗


 その白札郷士の家の主は怒っていた。

 あれほど目を掛けた弟子が、帰って来たにも関わらず何時まで経っても顔を出さなかったからだ。


瑞山ずいざん先生。判った」

 笠を外しながら、窮屈そうに鴨居を潜るのは身の丈六尺(百八十センチ)の大男。

「おう信吾しんごか」

 

七以しちいめは、十日前にもんて(戻って)来て才谷屋さいたにやの分家に逗留しちょります。

 なんでも遊学先で気に入られて仕官したんやとか。

 先日、土州士籍としゅうしせきを抜けて、正式にあちらの家臣となったそうや」

「あのべこんかぁ……」

 らしくも無い怒りを露わにする瑞山。


 目を掛けて直に剣の指南まで施し、遊学にまで送り出してやった愛弟子。の筈であった。

 それが自分に一言も無く、弊履へいりを棄つるが如く主君を変えた。

 近くに置いて育て、何れ取り立ててくれようと考えていた。それだけに彼の仕官は衝撃だったのだ。


「今一つ」

「ん?」

 信吾の報告は続く。

水府すいふの天狗からの報せや」

 信吾の笠に編み込んだ紙縒こよりを解くと、情報だけが書かれた紙片が現れた。

――――

 義挙不首尾。

 大樹たいじゅ御親兵ごしんぺいに阻止さる。

 有村次左衛門ありむらじざえもん殿。御親兵差配大江登茂恵おおえのともえに討たれる。

 御親兵畏るべし。義挙を阻みしは、全て年若き女性にょしょうなり。

――――

「これは、まっことか? あの有村殿が討たれたと」

「そのようや。

 おまけに七以めは、この登茂恵の家来になったにかあらん」

 登茂恵の家来になったに違いないと信吾は言った。

 事実ならば、瑞山の大いなる企てに味噌を付けた者に随身したと言う事になる。


「何を遣うちゅーのや。あいたぁ(あいつ)!」

 瑞山は吠えた。一声吼えると瑞山は、座禅を組んで静かに目を瞑る。

 そう。気を落ち着けて居るのだ。吐く息吸う息整えて、黙って彫像のように動かない。

 信吾はそんな瑞山に倣って、正座して膝に手を置き沈黙する。



 かれこれ四半時は流れたであろうか。完全に己を御した瑞山は目を開く。

「拙いな。いやって(詰まって)しもた。羽林が生きちょるなら、大樹が天下が揺るぎ無い。

 東洋一人除いた所で、土州は天子様の為に忠を尽くす事は出来んな」

「げに」

 絞り出す様に信吾が応える。

「おうのー。ご老公もご老公や。何で東洋を重んじる。奴めは大樹の天下を重う見る奴やき、ご英慮が知れん」

 ある種、主君すら見下す物言いだが瑞山本人は気付いているのかどうか。少なくともここには聞き咎める者は居なかった。


「動かんと為らんな。来年は辛酉しんゆう、天命が改まる年や。

 それも推古天皇九年より、一ほう千二百六十年目に当たる大革命の年や。

 やき、きっと世は動く。いや動かんと為らんのじゃ」


 開け放たれた窓から望む白い雲。天狗と耶蘇の御使いの如き姿の二つの雲が、今近付いて交叉する。

「天でも相撲の始まりにゃあ」

「まっこと」


 空を土俵に繰り広げられる相撲の様を睨みながら。まるでおのれに、天の意志があるかのように瑞山はう。


「天に代わりて不義を討ち、悪人共を除くには。時に非情の手段を採る勇気も必要や。

 信吾。おんしゃあ、天下の為に猛を発する勇気はあるか?」

 瑞山は、傍らにいる愛弟子の名を指して問うた。

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