浮瀬の揚屋

浮瀬うきせ揚屋あげや


 案内された浮瀬の揚屋は、台地の西崖に近い坂にある。

 上天気とも相まって、瀬戸内の海を借景とする庭は見事なものだ。

 遠くに見える島影の向うに、大きな渦が見て取れた。


「お気に召しましたか?

 遠くに見えるあの島は国のはじめなる淡路島。渦は名立たる鳴門の潮路。

 絶景でございましょう」


 春風殿がんだ浜路はまじと言う芸妓げいこがわしの世話をしてくれる。

 いずこかの奥に仕えたこともあるのだろうか? 三十路を越えた世巧者よごうしゃで立ち振る舞いも上品だ。



「お美しい御髪おぐしにございますね。

 東一とういち様も、こんない方がいらっしゃるなら、七日に十日も来なくて宜しいものを」


 柘植の櫛で梳きながら、わしの髪を整える浜路。


 一般に女の子と言うものは、歳より長けて見られることを望むものだ。

 幼いからこそ大人の女に憧れる。だからこそ、普通は嬉しい世辞となる。

 因みに、これが歳より若く見られたく為るように成れば、最早女の子とは言わないものだ。


 だから子供らしく、浜路のお世辞ににっこりしてみせると、つんと頬を指でつつかれた。



「化粧をしなくても、美しいお顔にございます。少しばかり嫉妬してしまいました」


「そう言われると。世辞と判っていても、嬉しく思います」


 そんな他愛もない応対を楽しみながら、陰り行く部屋と赤く染まる庭の風景。

 茶菓を楽しみ、見飽きぬ庭を眺めている内に。明かりが灯り、揚屋に音曲の調べが流れ始める。


「お待たせ致しました」

 どこをほっつき歩いていたのやら。少し酒を召した春風殿が、二人の客人を連れて来た。



 適塾の塾頭・専斎せんさい殿と並んで座る目の前の御仁ごじんは、


「手前は広屋ひろや儀兵衛ぎへいと申します」


 と挨拶をし、春風殿が紹介する。


「儀兵衛殿は、紀州・醤油作りの七代目であります。

 姫様は幼くて記憶にないでありましょうが、すぐる大地震の際、一早く大津波を察知して、稲むらに火を放ち村人を救った御仁ごじんでありますぞ。

 さらに、二度と津波の害の無きよう、銀百貫余をなげうって。郷里の広村に高さ十六尺半、長さ五町半にも及ぶつつみを築いておるそうであります。


 また医学や蘭学にも理解を示し支援しておられるのであります。

 昨年末にお玉が池の種痘所が烏有うゆうに帰した時にも、直ちに三百両を出して再建し。さらに大枚四百両をあたえて、図書や器械を賄わせたそうであります」


 さては、適塾てきじゅく経由の接触か。金主きんしゅは多い方が都合良い。



「儀兵衛殿は蘭学にご理解があるのでございますね」


「はい。人の命を救う術でございますれば。

 疱瘡ほうそうと言う病ほど、世に恐ろしきものはございませぬ。

 手前も何度かこの目で見ましたが、顔に酷いあとを付け、失明させ、命を奪い去ってしまいまする。


 ところが外国とつくにには、ジェンナー殿が発明したと言う牛の疱瘡を植え付ける術で、人は疱瘡を免れるのだと伺いました。

 広まれば、助かる人は幾千万ともなりましょう。


 儲けた利を世間に返し、我が身を富ませ人をも富ますのが商いの道。

 及ばずながら手前共もお力に為りました」


「それはそれは。大変きおこころざしにございます」


「ところで」


 と、儀兵衛殿は切り出した。


幸姫さちひめ様には先頃、惜しげもなくお家の秘伝の霊薬の書をお伝えに為られたとか。

 未だ投薬を試みられては居ませぬが、同書にある二つの染料は素晴らしき物でございました。

 宜しければ、手前共もお力に成りたいと存じ上げます」

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