響かぬ糸
●響かぬ糸
子供達が逃れ出て、小屋に残るはわしと親方の使いのただ二人。
これが伝えに聞く水府流剣術と言うものだろう。抜いた刀の所作は北辰一刀流に近い。
男は殺気を放つものの、未だわしを斬るのに迷いがあると見えて、心が居付き体は手の内に力が籠り過ぎている。
わしは
吐く息、吸う息。心臓の鼓動までがお互いに、手に取るように解る距離。
どちらかがあと三寸踏み込めば、血を見ずして刀は鞘に収まらぬことだろう。
「私は
先ずはわしの旗幟を明らかにする。必ずしも敵ではないのだと。
「お
「聞こう。お前は何者だ」
だらんと垂らす刃だが身は些かも油断無し。ここらは
軽々に刃の織り成す結界の内に入り込んだ者は、一触にして両断されよう。
わしも半ば腰から抜いた鞘から手を放し、柄だけを右の手に握って変に備える。
あちらから踏み込んで参れば、刹那に打ち払えるように。
尤も、躾刀だと悟られぬ為でもあるのだが。
「藩主一族に連なる、庶子の一人にございます」
当たり障りない範囲で身元を明かす。どう解すかは勝手だが、嘘は全く言ってはおらぬ。
すると親方の使いは、忽ち殺気も消え失せて。
「お前もか……」
自らと共に憐れむ様にわしを見た。そして、
「大樹公の天下は長男が大事。武家の次男以下は部屋住みの厄介。民の次男三男は田畑も無く下人同然。
まして妾腹など水にされぬだけ儲けものと言うありさまだ
わしの母は
その父も親の代からの新参故、小人共の佞言で蟄居の憂き目を見た。飯の差し入れも許されず、飢えて死ねと言わんばかりにな」
「うわぁ」
思わず声が漏れた。長き太平の世ゆえに、今では一室に閉じ込める禁固刑となっていたが、確かに本来の蟄居は米穀を欠くと言う話を聞いた事がある、
「ではお父上は……」
「わしが投げ込んだ濁り酒で、なんとか命を長らえた」
彼の言葉に、気を抜いてはいけないのだろうがほっとする。
「元々この大八島は一天万乗の
やれ長男だ次男だの、やれ嫡子だの妾腹だの、真に馬鹿らしき限り。
考えても見よ。武士の世を開かれた鎌倉殿の頃には、次男三男にも目は有ったのだ。鎌倉殿自体が三男であるし、彼の那須与一に至っては
因みに、鎌倉殿とは源頼朝の事で、余一郎とは十を超えて余り一の意で十一男を指す。
十一男である那須与一の家が那須の本家と成ったのは、単に兄達が尽く平氏に付いたからと言う巡り合わせに過ぎない。
わしが思うに、当時の戦は負ければ族滅の定め故、一族の血を絶やさぬよう掛けた保険が与一であったのだろう。
鬱々とした悪しき気が立ち込める小屋の中。嘆きの声が
ああこれは怨念だ。なにやら闇を心に宿す目の前の男は、わしに説くと言うよりも自分に言い聞かしている。
あたかも彼は、張り詰め過ぎて誰の耳にも聞こえない高き音を響かす糸。
「だから!」
誰の耳にも聞こえて来ない三万サイクルを超えた音の響きが、わしの肌をざらつかせる。
奴は
「だからわしは、
「天狗様らしからぬお嘆きにございますね。私には幼子の駄々に聞こえます」
わしはあいつを睨み付け、口元だけで笑みを作る。
「何ぃ!」
「駄々で障りが有れば言い換えましょう。どう見ても世を
それを史書やら聖賢の言葉で飾っておるに過ぎませぬ」
そうわしは、目の前の若者に決めつけた。
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