第八章 遠い備え

草萌ゆる

●草萌ゆる


 閏三月はまだ寒い。寒いが野道は萌え始め、冬枯れの枝は新芽が膨らんでいる。

 へちょ。へちょ。拙い声は若いウグイス


「むぅ~~」

 帰り道の馬の上。

 わしの腕の中で、今回も出番が無かったふゆ殿がねていた。

 上巳じょうしの変の時は、無暗に使うと町家まちやの巻き添えが懸念されて居たし、今回は和泉守いずみのかみ様ご家中の働きで、使う機を逸した。

 張り切っていた分、その反動もでかいと言う訳だ。


「ご機嫌を直いとーせ。此度こたびはオールコック殿からの土産も有るぜよ」

 宣振まさのぶが声を掛けるが、変わらず生殿はおかんむり

「我慢しとぉくれやす。帰ったらご甘藷かんしょを蒸かして差し上げるさかい」

 お馬の手綱を握るお春が顔を覗き込むと、

糖蜜芋とうみついも

 初めて生殿が言葉を返した。


 糖蜜芋とは平成の御代で言う大学イモの事である。

――――

1.醤油しょうゆと倍のみりんで黒砂糖を溶き、隠し味に塩を加えタレとする。

2.灰汁あく抜きしたサツマイモを天火てんぴ(オーブン)でじっくり焼く

3.2をカラリと胡麻油で上げる。

4.3にタレを煮て作った蜜を絡めて、炒り胡麻を振る。

――――

 なんだ大学イモかと言うなかれ。

 この時代、材料も贅沢なら製法も贅沢。旗本の姫と呼ばれる生殿でも、そうそう口に出来ぬ高級菓子なのだ。


「糖蜜芋どすかぁ?」

 流石に渋い反応を示すお春にわしは、

「先の恩賞がございます。和三盆なら無理でも黒砂糖ならばなんとかなりましょう」

 と助け船を出す。

「それどしたら、少し作りまひょか」

 お春は請け合った。


 そんなご府中へ戻る道すがら。わしはあちらのくさむらに、殺気を持たない人の気配を感じた。

「どなたです? こちらを伺うのは」

 誰何すいかすると、繁みが揺れる。遠ざかって行く気配にわしは再び、

「どなたです? 春の風ですか? 鞍馬山のお使いですか?

 轡十字くつわじゅうじのお坊様ですか?」

 わしはここで一拍を入れ、

「なるほどこの気配。覚えがあります。

 餓えた狼が如き苛烈さと、冬の陽だまりのような温もり。

 ひと荒野あらのを征く獅子の威と、狐の奸智を兼ね備えし獣の匂い。

 判りました! 石田村の色男にございますね」

 と口にした。すると繁みを揺らす音が絶え、

「かぁ~。なんで判るんだよ登茂恵ともえっち。

 良くもまぁ、次から次にずかしい事を口にしやがって」

 トシ殿が枯れ草を分けて姿を現す。


「いつから知ってた?」

「昨日からにございます。私達を密かに見守ってくれたのですね?」

「あーあ。隠れてたおらが馬鹿みてえだ。判ってんならさっさと言っとくれ」

 トシ殿は不貞腐ふてくされたかのように横を向く。だが解かる。怒っているのではなく照れているのだ。


「ありがとうございます」

「けっ。礼を言われる筋合いはねえよ。摩耶まやっちとうちの師範に言われただけだ」

 師範とは島崎勇しまざき・いさみ殿のいである。

 相変わらずぶっきらぼうな物言いであるが、トシ殿が心配してくれたのは間違いない。


「それでよぉ。また水府すいふの天狗共が出張って来やがったと聞いたんだ。登茂恵っちのことだから、備えちゃいると思ってるが。一発の弾で斃せるのは一人だけだろ」

 いい奴、トシ殿。それで駆け付けてくれたのか。

 わしは顔を綻ばせずには居られなかった。


 そんなわしにトシ殿は言った。

「あ、そうだ。破軍神社に来てた柳屋から言伝を頼まれてたんだ」

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