わかっちゃいるけど止められない

●わかっちゃいるけど止められない


 具視ともみ卿から発せられる圧が、水深二十メートルの海中から富士の八合目に引き上げられたかのように下がった。

 これが気圧なら断熱膨張による冷却で、人工の雲が発生する。具視卿の減圧も、わしの心にそっくりの現象を生じさせた。即ち、具視卿の真意を隠すもやである。

 これよりわしと具視卿は、一刻いっこく(二時間)程に渡って目の笑わぬ笑みを浮かべながら言葉を交わした。


「腹の探り合いはこれまでや。万葉の歌の如く、飾らず行きまっせ」

 折れたのは具視卿であった。そうして話始めたのは、かなりぶっちゃけた内々の話である。


 禄が固定なのに物価は上がる。困窮したのは武士だけではないと言う事だ。公家などは如何に貧しくとも、武家の様に内職を行う事も憚られる。


「宮中の行事に出さなならへん菓子や料理は、全て先例で決められてる。

 まあ、うちらの分だけやったら、絵鯛に替えて済ます事も許されるかも知れまへん」

「うわぁ~」

 わしの口から乾いた声が飛び出た。絵鯛とは絵に描いた鯛の事である。

「けどな。御労おいたわしや、当今とうぎん様に出す魚さえ真面な物は購えず、儀礼の為に食えへん腐った魚を飾るありさまなねん」

 その瞬間、わしは反射的に立ち上がった。

「有ろうことか! 聖上おかみの御膳に腐ったさかなですと!」

「登茂恵はん! ど、どないしはったん?」

 次の瞬間。座ったまま後退あとずさりして、わしから距離を取ろうとする具視卿の姿が目に入った。

 具視卿の顔には、老獪な公家に似合わぬ戸惑いの色。わしの剣幕に、こいつ気は確かなのかと考えて居るようだ。

「あ……」

 激高の余り知らず抜刀している自分に気付いたわしは、刀を納め、座り、吐く息数息整えて逆上のぼせた頭の血を大急ぎで鎮める。

「有っては為らぬ事を聞きました故、平にお赦しを」

 詫びを入れると、苔生した地蔵の様にわしを見つめていた具視卿は、

「驚いただけやさかい、気にせんといてや。

 そやけど今の登茂恵はんの為され様、まるで累代るいだい家人けにんのようでおますなぁ。

 お武家でこないなお人は初めて見たで」

 却ってわしを見直したかの様子。


「累代の家人……」

 言われてみて気が付いた。やはりそうか。

 前世のわしは陸軍の将校であった。少尉以上は位階を与えられているから、わしにも天皇陛下の御家人ごけにんと言う意識が存在した。

 前世の最終階級は、ポツダム昇進ながら兵隊の元帥と言われる大尉。形ばかりとは言えのらくろと同じ位まで上り詰めたわしは、位階にして正七位下である。これはこの時代で言えば左近衛さこんえの将曹しょうそう右近衛うこんのえの将曹しょうそうに相当するのだ。

 昇進直後に帝国陸海軍は解散したが、この矜持きょうじだけは誰にも奪えまい。


「確かに。主上おかみの余りな惨状に、思わず激高致しました」

 隠しても仕方のない事だから正直に話すと、具視卿は少しだけ困ったような色を見せながら

「これも洞春どうしゅんはん以来の尊皇のお血筋故やろう。

 驚いたけど。まあ、悪い事ではおまへん。お怒りついでに当今様に、なんぞ献上為されたら宜しい」

 と言った。

「ご教授感謝致しまする。ご教授ついでに厚かましゅうございまするが、差し当たって何が宜しいでございましょう。

 登茂恵は、宮中の仕来しきたりも、主上おかみが何を好まれるかもらぬ山猿でございます故」


 すると具視卿は、

「こら独り言やけんど」

 と大きな声で呟きを始めた。


 その内容のさわりは、先の話と重なるがざっと以下の様な内容であった。

――――

 主上には、せめて一旬いちじゅん(十日)に一度は、真面まともうおを召し上がって頂きたい。

 しかし、夷狄いてきが参ってこの方、何もかにもが高値こうじきとなり、以前は大樹公から献じられたろくで不足しなかった品々が、今では整えられなくなって来た。


 今や禁裏も公家も戦国の世の武家に荘園を横領されていた時代に迫る困窮の只中にある。

 この為、夷狄に対する怒りは増すばかり。しかし夷狄の武力は強大で、機械の偉力いりょくは計り知れない。

 あの四百余州しひゃくよしゅうを誇る清国さえも、今や夷狄の属国が如き有様と聞く。浮世の事に関心の少ない公家であっても、このことは少し目端の利く者ならば誰でも解って居る事なのだ。


 しかし理解していても、公家には武家のような武威は無いから如何いかんともし難い。

 生活苦に端を発する不満は、本来は禁裏や公家が持つべきである天下の大政まつりごとを委ねた大樹公たいじゅこう家へと向けられている。

――――

 宮中の窮状を打ち明ける話の途中から、献上品については無く、別の話にすり替えて来た意図はわしには判らぬが、恐らくはこちらに察せよとでも言いたいのであろう。

 話がずらされて来た為も、言質を取られぬよう用心しつつわしは耳を傾ける。


 こうして大声の独り言を言い終えた具視卿は、今の独り言よりも小さな声で聞いて来た。


「登茂恵はんは、武霊ぶれい胡服騎射こふくきしゃなろうて御親兵ごしんぺいを創りなはったて聞いてる。

 一体、今の八島で攘夷は成るでっしゃろか?」

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