相伝の書

●相伝の書


「はい。冊子が薄いですから。数日有れば写せるかと」


 書物の頭に書かれた二つの染料の作成手順を大まかに言えば、ベンゼンをニトロ化してニトロベンゼンにし、亜鉛を作用させて還元を行いアニリンを作る。ここまでは共通である。


 その一は、アニリンを重クロム酸カリで酸化させて黒色の脂を作り、エタノールに溶かして精製した紫の液体である。

 その二は、スルホン化やカップリングなど更に手順が増えるが、最終的に鮮やかなオレンジの染料が完成する。

 因みに、書かれていることは、前世の高等学校で習うレベルの化学だが、その操作は厄介だ。

 例えばニトロ化は温度管理を間違えると爆発の危険があり、例えば重クロム酸カリは極めて危険な毒物だ。

 知識があるのは当然、技能が追い付かなければ大変なことに成る。



 かつて、学生運動の過激派が創って領布した冊子に、爆弾などの製造方法が書かれていたことがある。

 確かにその中には、ビン・灯油・ガソリン・硫酸・ガムシロップ・マッチ箱の横薬がわぐすりと言った、比較的揃えやすい材料を用意すれば小学生でも簡単に作成し得るものもあったのではある。

 しかし、本格的な爆弾はこうは行かない。本には書かれていない、専門に化学を学んだ者なら常識の注意事項が山とあったのだ。

 入手して、専門知識も経験も無く冊子の内容を試した連中は、指を飛ばしたと言われている。



「母の実家の門外不出の秘伝らしいのですが……」


 わしは他言無用と釘を刺す。そして、


「その一の染料は、絹を紫に染め上げます」


 合成染料であると事実をそのまま伝えた。

 前世と国外の歩みが同じであれば、紫の染料は幕末のこの頃は発明されているかどうかと言う頃合いだろう。

 当然、適塾々頭の彼とて、作り方を知らない筈だ。



「禁色ですか。なるほど、これはおおやけに出来なかったのも判ります」


「ええ。広く流布しては大御稜威おおみいつにも関わる話ですから」



 後の世で紫紺と呼ばれる紫草むらさきそうの根・紫根しこんで染める紫は、神様や聖上おかみ、朝廷が許した高僧のみが召すことを許された色である。

 武蔵野には紫草が自生していたから、江戸紫と言う色も生まれたが、それでも藍とは比べ物にならない高価な物ではあるし、紫紺の様な色を使う事は今でも憚られている。



「しかながら三つ目の。うーむこれは猿播えんばんとでも読むのですか?

 色は白に近い薄い灰色と書かれてありますよね。

 一子相伝の事情もあるとは思いますが、世に出しても染料として売れる物とも思えません」



 やはりな。染料の作り方を二例挙げた後の記述だ。完成品の白色の記述からそう判断するのが普通だろう。


「いえ。これこそが、母の家に伝わる秘薬なのです。

 母の家には、大昔の豪族巨勢猿こせのさる様が矢傷がんで死に掛けた時、高麗こまの国より渡来した方士ほうしが薬を創ってお助けし、猿様は身体を大いに震わせて感謝したと言う言い伝えがあります。

 猿様が身体を震わせた故に猿播さるはと名付けられた霊薬を、方士の家が代々伝えて来たのです。

 母はその最後の一人でありました」


 勿論、わしが伝え聞いた今世こんぜの母の里の名から、嘘八百ででっち上げた話。

 巨勢猿が身を震わせたから猿播など、竹取物語に出て来る『あなたえ難』『かひなし』レベルのこじつけである。

 されども敢えて巨勢の名を使うのは、母と母の家族は何らかの禁忌に触れて、紀伊の山奥から追われたと耳にして居たからだ。

 母を捨てた奴らならば、もしもの時は迷惑を掛けても構わないだろう。



「巨勢と申しますと、紀州の?」


 知っているのか? 専斎せんさい殿。


「ご存じなのですか?」


 尋ねると、


「はい。薬売り達の里で、嘘か真か存じませんが、巨勢こせおみの末裔を称している者達とか。

 八代大樹公たいじゅこうに在らせられる有徳院ゆうとくいん様のご生母・浄円院じょうえんいん様の御出自は巨勢のむすめであったと聞き及んでおります」


 うーむ。でっち上げが背景を得てしまった。



巨勢氏こせうじ本草ほんぞうに長けた一族と聞き及びます。

 その秘薬となれば、私も医を志す者として興味があります」


 専斎殿の喰い付きがが半端で無くなった。

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