巡る盃
●巡る盃
あれから半月。
夜。霜が降る音が聞こえるかのように、静まり返った酒の席。
見越しの松の枝を分け入る様に射す月の光と、八本の百目ロウソクが照らす。
皆が皆、威儀を正し、吐く息吸う息整えて、畳の上に正座している。
左右に並ぶ客人をもてなすのは、床柱を背に座るやくざの親分。見た目穏やかにして黒紋付を着こなしている。
向ってその右手に、年の頃は四十路あたりの眼光鋭き貫禄のある男。長屋に押し掛けて来たやくざ者の頭、
左右に分かれた席の右最前列にはわし。その対面にはどこかで見た記憶があるような四十路ばかりの貫禄のある男。
わしの左には
対面の男の右隣には優し気な顔の大男。それと対照的に軍次殿の左には小柄で険の有る顔つきの男が座っていた。
どういう作法かは解らぬが、辰吉殿・軍次殿。そして優し気な大男と険の有る小柄な男だけが、正座では無く踵に尻を載せる跪坐をしている。
余の者は、取り立てて印象が強く無かったが、下って入口に近い末席には、道化のように外から呼ばれた
朱塗りの大杯に、三升の徳利から並々と注がれる酒一升。因みにこの時代、徳利は酒を持ち運ぶ為に使われた容器である。
「
わしは、凛たる響きに太鼓でも鳴ったかのような錯覚を覚えた。
当世では未だ数えの十の小娘なれど、これは手打ちの為の
親分からわし。わしから対面の軍次殿。そしてわしの左に座っている男。次いでその対面と、ジグザグに盃は進んで行く。
巡る盃が、静まり返った酒の席に厳かに影を差す中。あまり減らない盃の酒は、やがて一番の末席、幇間の許へと辿り着いた。
彼が目算七合の残りを一気に飲み干し、再び一升の酒が大杯に注がれる。これは相当の酒豪である。
「
幇間は一気に呑んで三合ほどを盃に残した。
なるほど。だからわざわざ酒に強い外部の人間を呼んで末席に置いたのか。
上り盃は、下りと逆順に盃が巡る。軍次殿からわし。わしから親分へと渡った。
それから、親分の横に控えていた男が一礼。正座から跪坐、そこから流れるように見事な
携えた道具は、朱塗りの盃。確かこの時代は『盃
そして前世の孫達にこれは何かと聞けば、口を揃えて蓋の無い
ほう? 流石にこの歳では酒を嗜まぬであろうと、わしには注いだ振りをしてくれた。そしてさりげなく盃洗に盃を潜らせてくれる。
酌み交わす所作を合わせて
古式ゆかしい
やがて末席の幇間との酌み交わし終了と共に完了。それを親分に代わって酒を酌み交わして来た男が告げた。
「これより、無礼講とあいなります」
するとあちこちで話が始まり、席を移動して思い思いに酒が酌み交わされ始めた。
これら一連の儀式が終わるまで、話す事も席を立つことも勝手に呑むことも許されない厳格な酒席の作法。
これを指して
戦後民主主義の流れで、いつの間にかこうした古い作法は行われなく為ってしまった。
この為、前世のわしが還暦を過ぎた頃には、本来の意味が忘れ去られ、
しかし本来は、こうした礼講無しで酒を呑む事を無礼講と言うのだ。
「
無礼講に移ると、間を置かずわしの前に来て頭を下げてみせる親分。
「
私のような小娘に頭を下げるなど、それだけで親分殿のご人徳が伺われます」
「そうかい。そりゃあ過分だねぇ。
おい、
機嫌良く口元を綻ばせた親分は、先程酒を酌み交わして行った名代を呼ぶ。
「へい」
持って来たのは、口に紐を巻いた一升徳利であった。
わしの歳を考え、注ぐ振りと盃洗で見事礼講を進めた彼がなぜ?
こんな物を持って来たのだろう。
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