墨絵の空に響く鐘
●墨絵の空に響く鐘
「ええな。わしが死んでも天命や。決してせんせを怨むんちゃうぞ」
決して
当人の希望と身内からの懇願で、手術と投薬が決定した。
なのでわしは、
「しかしながら、これはさじ加減の難しいお薬にございまして、世に厄災となる病の種を広めてしまう恐れがあります」
と知る限りの注意事項を説明する。
「母の家に伝わる話にございますが。
猿播と戦い続けた病魔はより強き病魔となって、他の者を殺めるとか。
故に体より遁れた病魔を確実に討ち取る算段が必要にございます」
チャーチルの命を救った事で有名なこの薬は、人類が初めて生み出した抗菌剤である。
その効き目は保証付きだ。しかし高校生が理科室で合成できる程簡単な構造なので、容易く耐性菌が生まれてしまう。
この事をわしは、言い伝えの形を取って良庵先生に伝えると。
先生はゆっくりと頷いて、
「ならば京にいる友人に、急ぎ石炭酸を寄越して貰いましょう。使いを頼みます。
それと急ぎ大量の湯の用意を。絹糸か女の髪の毛を何本か。百目ロウソクをありったけ。焼酎も用意して下さい」
あたかも
暫くして、良庵先生が呼んだ助っ人が薬や機材を持って座敷に遣って来ると、
「ここから先は、わしらの仕事に成ります。
これより先は命を繋ぐ為に、微塵も汚れを持ち込めません。決して座敷の戸を開けぬよう願います」
そうはっきりと、素人が居ては邪魔になると明言した良庵先生は、産婆が男衆を追い出すかのように、助っ人以外のわしや子分達や芸妓達を追い出した。
そんな良庵先生の考えを理解したわしは、逸る子分がしでかすかもしれない事故を恐れて戸の前に座り、躾刀に手を添えてこう
「勝手に開けたら、親分の命は無いでしょう。
外よりこの戸を開ける者は親分を殺そうとする者として、この私が成敗致します」
すると、わしが仕切るのに不満があるのか、周囲より聞えよがしに声が上がった。
「おお怖い。まだほんのガキの歳やのに、えらい貫禄や」
「これやったら厄もよう寄り付かへんな」
人を厄除けの鬼瓦扱い。まあ、ここまでは許せても、
「こないな女を好きになる男なんかおるわけあらへんで」
「そや。嫁き遅れへんかったら奇跡やな」
などと失礼な事を抜かす者は許せん。
尤もそんな連中は、
「何か申されましたか?」
じろりとわしが睨みつけると視線を逸らして口を噤んだのだが。
煌々と灯る座敷の光。石炭酸を吹き散らす音。
麻酔は無いから親分を相当な痛みが苛んでいるだろうに、うめき声一つ聞えて来ない。
風の音さえ今は絶え
墨絵の空が明らんで、ボォーーーンと長く低く
明け六つ鐘の音と共に戸が開いた。
「せんせ、親分は!」
囲む子分を手で制しながら、最初に出て来た良庵先生は、
「予断は許しませんが」
と断って説明を入れた。
「弾を取り出した後。傷口を焼酎で洗い、煮沸した女の髪の毛で縫いました。
猿播を飲ませ経過を観察中しておりました所、熱も下がり呼吸も楽になって来たようです。
あとは体力次第かと。それにしてもこれほどの効き目とは。どうやら猿播は本物の様で……。
看病は、身を清めて石炭酸で手洗いをお願いいたします」
この世界で、抗菌剤の効果が初めて確認された瞬間である。
史上初の抗菌剤を用いての治療は、後の世に良庵先生の事跡として記される事だろう。
斎藤
離れで一眠りして帰途に就く。泊り客が狭斜の街を
伏見の宿に至る人通り少ない大路を歩いていた時の事であった。
「そこの子供! 武士の一分により討たにゃあならん。
覚悟ぉ!」
振り返ると、わしに刃が迫っていた。
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