時節の進講

●時節の進講しんこう


 お春の持って来た文は大奥の御坊主の御伽坊主おとぎぼうず定芳ていほう様の物。

 前大樹公さきのたいじゅこう様の方諱かたいみなを戴く御年七十近いご老人で、四代の大樹公様にお仕えした奥向きの重鎮からのお達しであったのである。


 一読し、わしは皆に告げた。

「五日の武術始めに加わるよう、上様のご命令です。共は道中警護に宣振まさのぶ

 供として、奈津なつ殿とあき殿を連れて参ります。

 向うで手合わせすることもあるやも知れませぬ。今より備えて下さい」



 明けて文長ぶんちょう七年の正月。

 わしは元日を静かに過ごし、工兵・輜重兵・衛生兵らを招いた二日の宴。その他の御親兵を招いた三日の宴を無事に済まし、一月五日に登城した。


 参考までに大樹公たいじゅこう様は、元日の朝五つに白書院にて親藩・譜代・大大名、老中・若年寄らと対面して挨拶を交わし。大広間へ赴き、小中大名・諸奉行の挨拶を一人づつ御簾越しに受け。

 二日は元日と同様に外様大名の挨拶を受け、三日は仕事初めの御判初おはんぞめ。と、仕来り通りに過ごしていたことだろう。

 因みに四日は別名「坊主の日」。殿中に勤める坊主達の祝賀を受ける日であり、その後六日まで続く公式行事の一つに、わしを召した武術始めがある。



 登城した時、大樹公様は講書始め。学問の権威者から説明をお聴きになる儀式の真っ最中。

 部屋一つ隔てたわしの所にも、朗々と聞える声で、論語の一節が講じられていた。


――――

 君子は言をもって人を挙げず、人を以て言を廃せず。


 そも。君子は小人に学べども小人は君子に学ぶこと無し。

 無学の徒といえども老爺に年の功あり、状元じょうげんいえど志学しがく世知せち在らずと言えり。


 蕃書ばんしょは人の道を説かず君臣の道を惑わすものこれありと雖も、按針あんじん・検地・砲術等、蕃船ばんせんもといなり。

 されば君子国くんしこくたる八島たれとも、聖賢の道を知らざる蕃国ばんこくに学ぶべし。

 かつて仏法伝来の時、あるいは四書五経ししょごきょう渡来の時。八島はこれを受け入れて、天竺よりも浄土を願い、中原よりも中原たらんと学びたり。

 しかしてついには、智は東西のちょうを採り、文明古今ここんすいを抜くを得ん。

 蕃書もまた然り……。

――――

 官学の最高位に入る大学頭だいがくのかみ殿の講義だが、時節をかんがみた儒学の進講としては破天荒なものであった。


 小難しく話してはいるが、解り易く言えばこんな感じである。

――――

 為政者は、どんなに良い発言をする人であったとしても、それだけで大事を委ねてはならず、

 どんなに素行が悪い人であったとしても、良い意見を退けてはならない。


 そもそも、立派な人間は取るに足らない人からでも学ぶことが出来るけれど大したことのない奴は優れた人物からも学ぶことが出来ない。

 学識の無い人でも年寄りには経験による知恵や知識が有り、難しい試験を一番で合格する者でも、十五やそこらの少年に世渡りの知恵などありはしないのだと言える。


 洋書は儒学の訓えに叛く内容も多いが、航海術・測量術・砲術など、西洋の軍艦が威力の基本である。

 だから君子の国である我が国であっても、儒学と全く関係ない外国に学ぶべきである。

 かつて仏教や四書五経が渡って来た時、本場に負けないように学んだのだ。

 そうして遂には、知恵は東西の良い所を採り、文明は古今の優れた物を取り入れる事が出来た。

 洋書もまた同じである……。

――――


学斎がくさい殿は、三十路みそじ前とお若いながらも当代の俊英。流石、兄を超えて大学頭だいがくのかみを襲名されただけの御進講ごしんこうにございますな」

 案内の御伽坊主様。僧体の御歳を召された女性が評する。


 俗に、先生と呼ばれる程も馬鹿で無しなどと言うが、兎角とかく専門家はそれ以外について疎いもの。

 それを自覚しているだけ大した人物だと言う訳だ。


 今や官学も絶対のものでは無く、欧米列強にする為の蘭学・洋学が力を持ちつつある。

 新しき時代の足音が、光の流れる時の音が、聡い者には聞こえ始めているのかも知れない。



 長々と続いた御進講が終わり掛けた頃。控えの間に数人程が案内されて来た。

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