情景297【記憶のうるおい・遠くなったもの】

 昔より風邪が長びくようになった気がする。

 コタツに足を突っ込んで、買い置きのツナマヨパンをかじり、ホットミルクを口に含んだ。

「あっつ——……」

 ふっと白い表面に息を吹きかけ、そっと口につける。

 部屋のストーブが離れたところで静かに熱を溜めていた。上にやかんを置いて、お湯を沸かす。

 パチンと音が弾けた。

 ——そういえば。

 昔、小学生の頃に熱を出して学校を休んだときも、このストーブはそこにあった。

 あの頃の記憶。熱を出して学校を休んだ日の記憶と感触は、今も自分の中に確かなうるおいを保って残っている。


 学校に連絡を入れる母。いつもより遅く、ゆっくりと食べる朝ご飯。綿入れを着て、コタツに入り、れんげを手にとって熱いおかゆをすする。

 不謹慎かもしれないけれど、学校を休んだ日の朝に漂う音と空気は、ぼうっとした自分とは裏腹に、鮮やかで弾むようだった。

 母が、離れたところでお父さんに電話している。

「……そうそう。ちょっとお熱がね。うん。午前中、私の方で近くの内科に連れていくから——」

 おかゆをはふはふと口で踊らせながら、水と交互にしてちょっとずつ食べる。それから、薬を飲んでおでこに濡れタオルを添えてもらってから、もうひと眠りした……。


 もういちど、ストーブからパチンと音が立つ。体がぴくんと反応して背筋が伸びた。

 目の前には食べかけのツナマヨパンとホットミルク。一瞬、自分の感覚が、彼方でうるおう記憶の最中へと連れていかれた気がする。ストーブからはトントントン……と奥で小さく打つような音が続いていた。

「灯油、もう少ないのかな」

 見ると、芯の赤らんだ部分が半分くらいにまで下がっていて、てっぺんの方はやや暗くなっていた。

近づいたら、灯油が燃焼したあとの匂いがする。懐かしい記憶を、私の内側に起こす、冬の匂い。

 ——遠くなりにけり、か。

 明治生まれの俳人が残した有名な句を思い出していた。あれが、雪の中をゆく子どもたちの澄み切った色彩世界に、在りし日の自分を重ねていたように、自分もまた、熱を出して学校を休んでいた当時の自分を重ねている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る