情景300【私が見ていたもの。あなたが見ているもの】

 赤いダウンジャケットに両手をつっこみ、吐く息を白ませながら青空を見上げる。左から右へと流れる白雲を眺めていた。

 本当に、久しぶりに訪れた小学校。二十年は前になるかな。六年間を過ごした母校だった。当時、散々遊びたおした校庭に、大人になって再び立って、

 ——こんなに狭かったっけ。

 なんて、思い直したりする。

「あれ?」

 目の前に、ぽかんと空いた土とまばらな雑草だけの空間があった。

「この辺、アスレチックがあったよね。なくなったの?」

「もうないよ」

 後ろにひっついてきた娘が勢いよく言う。

「夏くらいのときに、持ってかれた。あぶないって、先生が言ってた」

「そっか。あぶないか」

 土を靴で擦れば、じゃりっと鳴る。娘は校庭にしゃがみこんで、いったい何を眺めているのやら。

 そのしゃがんだ姿に、当時の自分が重なる。

 冬にそよぐ昼日中の風。陽光は視界の端から端までを晴れやかに照らしていた。空は透き通って高く、そしてとても青い。

 横目にチラついたのは、校庭の隅にたまっていた枯れ葉くず。その瞬間にふと、記憶が、冬に立つ煤けた野焼きの音と匂いを、かすかに思い起こさせる。

「——そういえばさ」

「なに?」

「ママがここで小学生をやってた頃ね。ちょうどこのあたりで、焚き火とかしてたよ」

「たき火! 授業でやったことない」

 いま思えば、あれは果たして授業だったのか。それとも、掃除時間の余りだったか。ただ、校庭で焚き火をしていた話を、娘はなかなか信じてくれなかった。

「だって、たき火も先生があぶないって」

 いまはそうだろう。

 でもあの頃は、その先生が率先して焚き火を起こして、焼き芋をつくってたっけ。で、たまたまそこにいたみんなで、アルミホイルに包まれた焼き芋を熱がりながら剥いて、ほわっと湯気が立つアツアツの芋にかじりついていた。

 冬の寒い日だった。

 芋は舌にはりついて熱かった。

 五時間目の終わり。当時はまだ健在だったアスレチックのそばで。


 先生がシャベルを持ちだして軽く土を掘り、みんなが集めた枯れ葉の山を寄せ、

 ——芋、焼くぞ。

 そう言って掘った穴に枯れ葉、枯れ枝、乾いた棒を突っ込み、ライターで手際よく火をつける。そんな思い出話を聞いた娘が首をかしげていた。

「なんで先生がライターを持ってるの?」

「そのころの先生はね。職員室とか先生の机で、タバコを吸っていたのよ」

「うぇっ、ばっちぃ。くさそう」

 いかにも苦そうな顔。

「ホントにねぇ」

 いま思えばね。

 でも、あの焚き火にあたって伝わってきた熱は、冬風がからだにしみる昼下がりに芯まで温めてくれるような、そんな柔らかい熱だった。

 ——そろそろ、イモがあがるか。

 ——先生、もうちょっとっしょ。

 なんて、その瞬間だけみんな芋焼き職人。アルミホイルに巻かれたアツアツのそれに触れた瞬間だけ、寒さを忘れていた。

「ていうかさ、おいもを焼いてよかったの?」

「さあ?」

「あ、いーけないんだーいけないんだ」

 娘の軽々とした仕草に、ふっと笑ってしまう。

「久々にきいた。それ」

 当時の授業中や掃除の時間。こうして脇道に逸れるようなことはそれほどめずらしくない。雪なら雪遊び、昼下がりには焚き火をして温まった。

「……やきいもしたい」

「じゃあ、家に帰ったらお芋さんをレンジでチンしようね」

 娘は露骨に渋面をつくり、「なんでそうなるの」と言わんばかりに口を開けて眉間に皺を寄せている。

「ここではもうムリよ。今度、キャンプにでも行ったときにね」

「たき火ぃ。見てみたいな」

「……うん」

 それからしばらく、この子はどこか羨ましそうに、枯れ葉がときどき舞う校庭の土一面を眺めていた。

 ——きっと、ここではもう見られない。

 そう思ったとき、胸の内に冷たい澱のようなものがチクッとかすめる感じが走った。

 いま、この子が頭の中で見ている焚き火の想像は、いったいどんなものだろう。私と同じくらいの年になった娘が、こうして同じ場所に立っているのに。あの頃、私が当然のように見ていた景色を、この子が見ることはない。ただ、あの頃の記憶を、いまこうして言葉で伝えるしかなかった。

 もしかしたら、この子が見ている焚き火の想像は、私が見ていた記憶ものよりもずっと、色とりどりに脚色されているのかもしれない。たとえ同じ場所に立っていても、私とこの子ではきっと、見えているものが違う。時の流れがそうさせてしまっていた。

 見上げると空はいっそう透き通って青い。高々と天のてっぺんまでを見通せてしまいそう。

「いこうか」

「うん」

 白雲は散ってしまって、青空のどこにもなかった。きっと風にのって、私でない誰かが見ている空へといってしまったのだろう。

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あなたが見た情景 ななくさつゆり @Tuyuri_N

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