情景237【バイトと桜雨】

 出勤前にちょうど雨があがって、ラッキーと思いながらバイトに入ったら、開店早々しとしとと雨が降り出した。

「この野郎……」

 せっかく掃き終えたというのに。

 自動ドアを開くと雨で湿った空気がひんやりとそよいでくる。街はまだ春になりきれていないらしく、小雨こさめにまみえた空気には、まだどこかパリッと頬を突っ張るような感触が混じっていた。薄紅色うすべにいろの花びらが店先の通りに散っている。桜が咲くころの雨——風流に言えば、桜雨さくらあめというやつらしい。

「ま、ヒマになるからいいけどね!」

 思考はバイト根性丸出しで、のんびりと木製のカフェテーブルを丁寧に拭いてまわる。一方店長は、レジのそばで帳簿ちょうぼをにらみながらため息をついていた。

「余談程度に言っておくけど……」

「なんですか」

 昇給の話ならもっとこまめにお願いします。

「その働きぶりでなんで昇給してもらえると思ってんだ!」

「じゃあ、なんです?」

 せっかくひとが愛情をこめてテーブルを拭いてまわっているのに。

 店長はもういちどため息をついて、帳簿をにらんだまま言ってのける。

「そのカフェテーブルね。杉で出来ているのよ」

 ——世間に花粉を振りまく杉。

「お前かっ!」

 ペシッとテーブルを手のひらの先の方で軽く叩いた。

「まったくもう、世間様を騒がせて! 丁寧に拭いて損したわ!」

「あなた、花粉症だものね」

 違います。

「たまに鼻がツンとするだけです」

「なにも違わんわ」

 店のすぐ外を自転車が通り過ぎた。黒のパーカーでフードをすっぽりかぶったご近所さんが颯爽さっそうと通り過ぎる。

「え、雨止んだ?」

 そそくさと軒下に出た。そんなことはなかった。

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