情景276【空気の境目】

 蝉の鳴き声が聞こえる。

 窓は閉めたはずだった。それでも、閉じられた窓ガラス越しに、夏の虫の音が響いてくる。

「……もう、そんな季節かァ」

 白いソファに深く座って本を読んでいたさなか、耳を衝いてきた音で我に返った。パタンと音を立てて本を閉じ、欠伸をして、後頭部を軽く掻いてから立ち上がる。本はソファに置き去りにして、赤いちりめんのがま口を握り、外へ出た。

「うわっ」

 玄関の敷居を跨いだ途端、むわっとした空気が肌に触れてくる。

 ——夏は始まったのか、まだそんなことはないのか。

 アスファルトの歩道を歩けば、陽ざしを意識せずにはいられないらしい。シャツの襟ぐりのあたりを指で握り、思い直して手を離した。

 ——でも、汗が出るほどじゃないんだよなァ。

 夏という割には、陽ざしがまだ大人しい。ただ、春というものがどんな空気を纏っていたのかを忘れてしまいそうだった。

 しばらく歩くと、馴染みの喫茶店が見えてくる。

「やった。空いてる。よかった」

 ドアのガラス越しに中の様子を伺い、ドアノブを握って重たい扉を引いた。

 カラン、コロン。

 そして涼しい店内。

 入るとき、外と内とを隔てる空気の壁に触れた。音と共に出迎えるのは室内の冷やされた空気。つい、目を閉じて空気をゆっくり吸いたくなる。

「あ、ひとりです」

 と、店長に伝えて、なんとなく赤いがまぐちをかざした。店長は頬を緩めてグラスを拭いながら会釈する。冷房が効いた店内で、ようやくひと息つくことができた。


 外のじんわり暑い中を歩いてお店に入る。敷居にある目に見えない境目を越えて、ひんやりした空気に入っていくのが、心地よくてクセになるんだよね。

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