情景219【春にはまだはやい】

 先週よりも風が柔らかくなった気がする。ふと、空気にまじる風の匂いの、見えない筋のようなものを追ってみたくなった。

 病院の敷地内。本院である白壁の建物のそば。背を向けて置かれた簡素な青いベンチに腰掛け、中庭の向こうで暮れなずむ中空を眺めていた。


 ——日がだいぶ長くなったな。


 親指と人差し指でボトル缶コーヒーのキャップを締め、腰のあたりに置く。少し前までの真冬から片足抜け出たような気候。一応上着を着ているが、検査着だけでもそこまで寒くないのではと思えた。

 だんだんと空から青みの色が抜けていき、地平線のきわのあたりから、橙と紫の色味がうっすら広がって伸びていく。さっき、院内の移動中に窓から眺めた空はまだ青々としていた。それなのにいま眺めている空は、この場の落ち着き払った空気に同調しているかのようで、なんとなく心持が和らぐ。

 そばでボトル缶がコトンと音を立てた。一陣の風が過ぎる。風に土や草の匂いが少しだけまじっていた。


 少し前までの、真冬の冷めた空気にはなかった匂い。


 鼻から空気を胃の底に送りこむようにして、自然体で深く息を吸った。

 春にはまだはやい。そんなことを思いながら。

 すると、

「おっ。休憩中?」

「えっ」

 五感が自分の鼓動を拾う。

「よかったよかった。私も運がいいね」

「……お疲れ様です」

 隣に腰掛けたことで、さっきまでの匂いに違うものがまじった。

「ちょっとさ。愚痴につきあってよ」

 春にはまだはやい。このひとは誰にでもこんな塩梅だ。

「いいでしょ。休憩がてら」

 春には、まだはやい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る