情景228【虫は知らせない】
兆しとか予感とか、そんなものは少しも感じなかった。
虫の知らせなんてよく言うけれど、そんな酔狂な虫が二十四時間三百六十五日働いてくれるワケはない。
今日の仕事を終えて電車を乗り降り、駅を出て家路を辿っていく。冬の名残と春の気配の綱引きが街に寒暖差をもたらす昼下がり、今日はたまたま暖かい日を引いた。コートをひじに抱え、赤褐色の固いアスファルトで舗装された歩道をスニーカーでゆく。コロナ禍にあって早めの退社。まだ、夕の風が来る少し前の頃。
いつもより軽い足取りで歩き、見慣れたいつもの通りに安心感を覚えた。ちょうど、週末によく寄る近所の居酒屋の前を通りがかる。
「変わんないねぇ」
ここの大将とはよくすれ違うし、常連的に顔も覚えられていて馴染みある場所。よく店先に出ていて、言葉をかわすこともしょっちゅう。まだ明るい日の頃、大将が店内で仕込みを凝らす姿を外から窓ガラス越しに眺めて通り過ぎるのが日課だった。
「——あれ?」
ふと、違和感。足を止める。
いつもならガラス越しに見える、透明感のある場に暗い幕が下りていた。
入口であるはずの場所に灰色の壁。
「シャッター? 今日、店休日だっけ」
なにげなく寄った瞬間、背筋にピリッと痺れる感触が走った。降りたシャッターに、張り紙が一枚貼ってあったから。
『誠に勝手ながら、二月末で閉店しました』
一瞬、酸素が途切れた。視界に影が差す。しばらく、そこから先の文章が頭に入らないでいた。
『長年のご愛顧に感謝を——』
……うん。
「勝手とか……そんなこと、ないけどさ」
勝手とか言わないよ。だって、コロナだもん。
でもさ。
大将、ついおとといくらいに店先で、
「またよろしくッス!」
って、言っていたじゃない。笑いながらいつもの調子でさ。
深く、深く息を吐いてから、行き交うご近所さんに奇異な物を見る視線を投げかけられないよう、冷静を装いながらトボトボと歩き出した。
「またの機会、またあるといいな」
どんな気持ちで笑ってたんだろ。おととい。
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