情景227【春隣のうつろい】

 コートを置いてくればよかった。

 家を出て小道を抜けたあたりで、空の高いところからそよいでくる風を吸う。三月にさしかかったからそう思った、というわけではなく、実際に冬を忘れてしまいそうな暖かさで、家の冷えた空気にすっかり感覚が惑わされていたのを外に出て思い知った。羽織っている濃い色のコートが野暮ったくておもりに思えてくる。


 ところが、外に出てしばらくぶらつき、地下鉄で街の真ん中まで出て地下街経由でいくらか買い物をして、それから元の駅に戻って出口から大通りに出てみると、今度は日暮れの気配を感じて開いた首もとが気になりだした。通りに車の量は増えているのに、動きが少なくて静かに感じる。

 ふと、背後から風が抜けていった。耳の付け根や首筋を冷たい空気が撫でていく。

「日もだいぶ長くなったけれど」

 あらためて遠くを眺めれば、中空の青みは淡くうつろいでいって、街を照らしていた光は弱まっていた。大通りの脇に並ぶビルの列が、薄暗い壁のように思える。溝の底に立って淡い空を見上げていた。

「——もう春がきたかなって、思ってたのに」

 コートの裾が風になびいて揺れる。言葉を運ぶ風は軽かった。白っぽい空の西方が赤くにじんでいる。

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