情景249【耽ったあとに】

 文机に向かってしばらく経ち、不意に廊下側のふすまを引く音がした。廊下の方に視線をる。女将おかみふすまの端のに手を添え、

「あら、これはとんだお邪魔を……」

 ペンを置いた。手の甲に涼風が触れる。

「いえ。ちょうどひとつ区切ったところです」

 女将は笑みを返し、

「先生、そろそろ——」

「ああ」

 と、宙をみてぼやいた。

「もうそんな時刻でしたか」

「こちらが声をおかけするまで、ずっと書き続けてしまわれるから」

 ここでようやく、外は夕の暮れ頃に移ろいでいたことに気づいた。

「……参ったな」

 出来は半分と言って、窓の外を眺める。それから後ろ髪を掻きつつ、

「不思議なものです。最初は何もひり出せず、途方に暮れていたのですが」

 そう言葉を繋げた。

 女将は「あら」と言ってくすりと笑う。

「そうでしたの? すっかり書き物に耽っていらっしゃったから」

「それは、相当後になってからです」

 中空にあったはずの太陽は海面の奥の水平線に触れ、空を赤くにじませながら海に溶けていく。

「潮の匂いか」

「夕の風は冷えます。お体にさわりますよ」

「いいえ。しばらく、ここに座って居たいのです」

 なだらかな海とその先にある水平線を眺めていた。

「とにかく。いつものをお持ちしましたから」

 漆の茶盆に乗っていたのは、麦酒瓶ビールびんと逆さに立てた硝子ガラスコップ。

「ありがとうございます」

「いえ。すぐにご夕食の準備を……」

 女将は下がり、部屋でひとり天井を向いたコップの底を、親指と人差し指で掴む。

 ——よく冷えている。

 冷えたコップに、指の腹のあとがふたつ残った。

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