情景232【病室とラケット】

 ここ数日、ずっと窓のそばにテニスラケットを置いてそれを眺めていた。窓辺の陽だまりで、ラケットが気持ちよさそうに陽光を浴びている。白いフレームに赤いラインがいくつか入っていて、“Baboratバボラ”の英字が光を受けて浮かんでいた。白い壁、白い窓枠。網入りガラスの鋼線が陽を受けて光をちらつかせている。ラケットをひとしきり眺めてから、枕もとのテニスボールを触って、感触を確かめた。

 ひとは何かに触れると、それにひもづいて記憶が後ろ髪を引くように浮かんでくる。


 両親に買ってもらったラケット。

 二年前にガットを張り替えて、そのまま使わずじまいのラケット。

 私は、病室のベッドでそれを眺めていた。


 二十歳になる少し前、別の病院で将来の透析とうせきを告げられた。それからずっと頭の中で、不安と恐怖が鐘の音になり響き続けている。それで、自分が抱えた腎不全じんふぜんのために、去年お母さんから腎臓じんぞうをもらった。それなのに、私の体はお母さんの腎臓を弾いてしまった。私を見る父さんの表情カオは、努めて落ち着いていて、穏やかだった。

 そして言う。

「大丈夫だ。父さんの腎臓があるからな」

 それからしばらくして今の病院に入った。そしてまた移植の日を待っている。

「移植が全部終わったら、何がしたい?」

 父さんと母さんが話を振り、こちらは頷きながら、

「みんなで打ちに行きたい」

 視線はラケットの方に向けて、ふたりの顔を見た。指の腹でさするテニスボールの毛羽メルトンの感触が、柔らかく手に馴染む。

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