情景231【川を遡って】

 流れゆく水を辿って道を遡っていけば、いずれ水源に着く。着いた先にある緑の荒草深い中に、なだらかな湖が広がっていた。晴れた昼日中でありながらも、囲む針葉樹の暗がりを受け、湖は墨を垂らしたような重たい色をしている。人々の生活を支えるそれは、山裾の少し奥でひっそりとかすかな波紋を揺らめかせながらそこにあった。

 ここに通常、人はいない。幾ばくかの、風と生き物の気配だけ。

「舗装もされてませんね」

 畦道あぜみちの脇に退けられた草の茎を踏みながら言う。

「そりゃ、人なんてこないからな」

 じゃあ、なんで私らは来ているんですかね。

「水質をるは大切な仕事」

 紺の作業着を上から下まで。裾をゴム長に突っ込んだ先輩が、ずんずんと先に進みながら言っていた。緑葉りょくようをつけた木々が傘となって陽光を遮り日陰をくれる。たまにゆすられた隙間をぬって、陽光がぽつぽつと私や先輩の肩や頭に小さな光の粒を打っていた。

 水辺に出る。湖の照り返しが瞳に触れた。それから、視界を覆う広々とした自然のよう。広がる空間のどこにも、人なんていやしない場所……。

「あんまり全体を見んな」

 ——え?

「帰れなくなるぞ」

 笑顔で怖いことを言う。

「なにそれ。怪談ですか」

 少し間を置いて、

「いや……。単にぼうっとしていると、帰りが遅くなるって話だよ」

 そう言って帽子を深く被り直し、屈んで泉の水を採取しはじめた。

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