情景206【去るひと・後編】
会話の端々に出る、「向こう」でのこと。彼の言葉には、夜の底で空に光るなにかを見上げてざわめくような、期待と好奇心が混じる昂揚感が宿っていた。そんな彼の言葉を聞くたびに、わたしは心臓を直接打たれるような鼓動を胸の中に感じてしまう。
——本当に、行っちゃうんだ。
ぎゅっとプラスチックのコップを握る。顔をおそるおそる上げて彼の目を見ると、一瞬からだが固まった。さっきまでちびちびと飲んでいたウーロン茶のコップを、トンとテーブルに置いて、握ったままひゅっと息を吸う。
「あっ、あの……」
「あ、うん」
彼はゆっくりと視線を向けてくれた。
「い、いつ……?」
「ん、卒業したらすぐだな」
右手で首を掻きながら、
「向こうでの部活は入学前からあるし。そっからはずっと練習だな」
そっか。
「ほんとに……」
——ほんとうにすぐなんだね。
横の先輩は、無言でかしわおにぎりの皿をペロリと平らげる。
しばらくは、会話になるかも怪しい言葉をぽつぽつとつぶやくだけだった。でも、話すうちに堰を切ったようにあれこれ言葉が出ていたことにあとから気づく。途中涙も出そうになったけど、それはウーロン茶でおなかに流し込んだ。ふと外を見たら、すっかり夜の雰囲気に包まれている……。
先輩が手早く伝票を取る。
「よし。ぼちぼち行くか」
「ウス。呼んでもらえて嬉しかったっス」
「んー? そりゃまァ、お祝いだからねえ。……ね?」
「……」
先輩が、私の背中をそっと叩いてくれた。
お店の外で解散したとき、暗い商店街の通りで彼は軽く手を振ってから背中を向けて向こうに歩いて行った。帰り際、彼の口がなにか言ったような気がしたけど、それが風の鳴る音と重なる。
「言いたいコト、言えた?」
——わかりません。
「……憧れだったんだねェ」
先輩は、そう言って優しく笑ってくれる。
帰り道をゆく彼の姿は、街灯に照らされて、夜の町に明るく浮かび上がるようで、それがしばらく私の目に焼きついた。
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