情景285【夏夜の灯り】

 夏の夜風を浴びに外に出ていた。まだ寝静まるような時間帯はないはずなのに、周囲の家々は灯りが消えていて、黒々とした立体の影をつくっている。

 目の前にある上り坂だけが、浮き立つように目立っていた。両脇に立つ古ぼけた街路灯が、点々とまっすぐ奥まで並んでいる。その頼りない薄黄色の灯かりが私のまわりで唯一人工の光を下ろしている。

 夜のぬるい風がざぁっと音をあげて通り過ぎた。木々がざわめいて鼓膜をくすぐってくる。

「……どこまで行ったんだろ」

 父さんが、煙草を買いに行くと言って表の大通りの方に歩いて行った。それを待つついでに、夜風を浴びに坂道まで来ている。

 ふと、ひとりの女性が通り過ぎていった。

 ——女のひと、かな。

 顔はよく見えなかったが、細身で、髪が長くて、背丈も私とそう変わらないくらいだったから、女性なのだと思った。

「この先には山と神社しかないんだけどな——」

 こんな時間に、女性がひとりでどうしたんだろう。

 そのひとは、坂道を一定のリズムで淡々と登っていく。他に見るものがなくて、つい歩いていく後ろ姿を目で追った。

 音もなく歩いている。いや、あるのだろうが、夜風と枝葉のさえずりに消される程度のささやかな足音なのだろう。

 坂道は、街路灯の光がつくる傘の下以外は真っ暗だ。そのひとは光の傘に入ると姿を現し、夏夜の陰に入ると消える。そうして歩きながら消えたり現れたりを繰り返した。街路灯の下に出るたびに音もなく現れ、そして消えて、姿を現し、姿を消して、現われ、消え——。

 そして、坂を上り切る前に現れなくなった。

「途中で曲がったのかな……?」

 そのあたりに脇道なんてなかったはずだと思っていたら、パっと街路灯の光の下に父が出てくる。父は悠々と坂を下ってこちらに歩いてきた。

「悪い。待たせた」

「お父さん。坂道で誰かとすれ違わなかった?」

「すれ違う? 誰と?」

 父は首を傾げる。

「いや、別に……」

 そのまま、夏夜の灯りに照らされる木々を背にして、家路を辿った。

「ていうか、大通りの方に行ったんじゃなかったっけ」

「ああ。ちょっと方向を間違えてな」

 なにそれ。

「それで坂の上まで行ったの?」

「ああ。ちょっと鳥居の前で、形だけ拝んできた」

 ……うん?

「あのさ、煙草を買いに行ったんじゃないの?」

 その時、父の動きがピタリと止まる。

「……」

「お父さん?」

「……そうか。それはアレだな」

「ちょっと、大丈夫?」

 と、父の方に向き直したら、父は姿を消していた。

 いない。

「え、なにこれ」

 すると今度は、少し離れた前方から「おーい」と父の声が聞こえてくる。

 いつの間にか、父が家の前に立っていた。

「なにぼうっとしてんだ。もう着いたぞ」

 思わず小走りで寄る。

「ちょっと、歩くの早くない?」

「おまえがボサっとしていたんだろうが」

 それから父は、我が家の向かいにある空き家の方に歩いた。

「あの、そっち空き家……」

 父はなに食わぬ顔でさびついた玄関を開け、無人で真っ暗な敷地の中に踏み入り、

「ほら、お前も」

 と、手招きする。

「いや、ちょっとお父さん」

「どうした。はやくに来い」

 ——いや、ダメじゃない。……本当にいいの?

 道の真ん中で固まっていると、我が家の玄関が開く音。

 寝間着姿の母がワンコを抱えて顔を出して、

「アンタ、道の真ん中でなにしてんの?」

 と、こちらを訝しんで声をかけてくる。

 母とワンコの顔を見てほっと胸をなでおろし、

「え、だってお父さんが……」

 と言って、父が立っていた向かいの空き家の方を見たが、父はまた姿を消している。さびついた玄関も閉まったままだった。

「夏バテかしらね」

 母は呆れて雑なことを言うだけ言い、ワンコをおでこを優しく撫でる。そのまま家の中に入った。私も、釈然としないものを感じながら我が家の玄関をくぐる。

 玄関の鍵をかけてチェーンをかけて、ほっとした。

 冷房の効いた屋内。見知った人の気配。清潔になりきれない生活感と、テレビから流れる間の抜けたバックミュージック。それらすべてが、さっきまでの夏夜の出来事を過去にする。

「アンタ、まだお風呂入ってないでしょ。どうするの」

「入る」

「まったくもう……さっさとね」

 肩をだらりと落とし、靴を脱いであがった。一方、母は廊下で風呂場に向かって声を上げている。

「ちょっとお父さん! いつまで風呂に入ってんの!」

「……なんて?」

 じゃあ、さっきの父は誰だよ。

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