情景175【キミのそっと吐く息は】

 歩道橋の真ん中に立って、夜の底で暗がりに染まっていく街の空気を吸った。喉を通って胃に落ちる冴えた空気と、肌に触れる乾いた感触が私の体を冷ましていく。

 ところで、

「さっきのキミ、『釣瓶つるべ落とし』とかなんとか、言ってたね。

「ええ。言いました」

 朗らかに答えてくる。横顔に、柔らかい頬が口の端を吊り上げる笑みが浮かぶ。

釣瓶つるべってなに?」

 私の脳裏に過るのは、最近飲料メーカーの界隈で麦茶のサイズを大きくしてくれていると評判のあの——。

 と、トボけてみせれば、彼はくすりと笑う。

「井戸桶ですよ」

 とだけ言った。

「吊るされた桶が、井戸の底にひゅんって落ちますよね」

 うん。

「あっという間に底まで落ちていきます」

 かもね。

「そうして落ちていく様を、たちまち暮れる秋の日没となぞらえて、鶴瓶つるべ落としと言うそうです」

 先人は色々考えるもんだ。

「じゃあ、もうひとついい?」

 どうぞ、と答えて笑う。

「キミのそういう妙な知識、いったいどこから仕入れてくるの?」

 そう尋ねたら、彼は視線を西方に遣りながら、

「気がついたら、こうなってたんですよ」

 なんてことを言った。


 気取っちゃってさ——って、言おうと思ったけど、やめた。


 横目に見た彼の口から、白んだ息が漏れて消える。

「……いいかも」

「なにが?」

「ううん」

 そっか。もう冬なんだね。

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