情景117【記憶のうるおい。ラーメン屋夜話】

 暗い水の底を這うように、夜の街を無言で歩いていた。

 帰り道、地下鉄の入り口を示す無機質な光のそばに一件、部屋の明かりを外へこぼすように電灯の黄ばむ白光を眩しく放つ古ぼけた建物が目についた。


 家のような、店のような、そんなつくりの建物。明かりは出入口から道端にこぼれているらしく、そこから人がぽつぽつと出入りしている。そのたびに、ガラスを嵌めたアルミの引き戸がガラリと音を立てた。

 通りがかり、引き戸のうえの薄暗い中でささやかに照明を当てた看板を見て驚く。


 ——まだ、あったのか。この店。


 このあたりに越してきて、もう十年ほどになる。

 越してきてまず驚いたのが、この店というか、この店で食える一杯のことだった。


 一杯二百八〇円で、とんこつラーメンが食える。


 越してきたばかりの頃、専門学校を出て就職したてでとことん貧乏だった自分は、とにかくこれに助けられた。

 疲れた日に食べ、怒られた日も食べ、初めて納得いく仕事ができた日も食べていたはずだ。自分のやらかしで店長から散々に怒鳴られ、自己否定に苛まれるほど打ちのめされ、それでも相変わらず金はないから、ベソをかきながら二百八〇円を払ってここのラーメンをすすっていた覚えすらある。

 時が経つとともに知らずと遠ざけていただけで、当時から今までこの店はここにあったらしい。この状況下にあっても、どうにか踏ん張っている。

 ——ちょうど腹が空いていたところだ。

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